完璧な人間はいない――。だが、仕事も私生活も充実させ、鮮やかにキャリアを築く「女性リーダー」は確実に増えてきた。企業社会の第一線で活躍する女性たちの素顔に迫り、「女性活躍」のリアルを探る。
赤々舎(あかあかしゃ)という不思議な名前の会社をご存じだろうか。無名に近い新人写真家などを発掘して写真集を出し、数々の賞を受賞してきた実績で知られる出版社だ。
筆者がこの会社名を知ったのは10年ほど前、広告関係の仕事で、ある若手写真家にインタビュー取材をしていたときだった。彼は人見知りなのか広告仕事が気に入らないのか、終始不機嫌そうな様子。しかし、何かの拍子に赤々舎の話になったときだけは別人のようにうれしそうな表情になった。
インタビュー内容は覚えていないが、赤々舎のことだけは強烈な記憶となっている。この小さな会社には、誇り高くて不器用なクリエイターの心を動かす何かがあるのだろう。だから、本連載の取材先候補に「赤々舎の女性社長」が挙がったとき、筆者は即座に賛成した。会ってみたい――。創業の話や写真集を作る際の心構えを聞くことで、良き商品を生み出すコツや新しい働き方のヒントがもらえるかもしれない。そう思ったのだ。
――20代の頃は編集者や経営者になるつもりはなかったそうですね。
20代半ばまでは和歌の研究者になるつもりでした。大学院の博士課程まで進み、中世の和歌を夢中で研究していたのですが、研究者として働くことには疑問を感じていたのだと思います。たまたま旅行で上海に行ったときに、くすぶっていた気持ちが弾けてしまいました。
2000年頃の上海はバブルになりかけの時期で、至る所に人があふれて、竹の足場を組んで高層ビルをどんどん建てていました。埃(ほこり)やクラクションもすさまじく、わい雑と混沌そのもの。
私が特にひきつけられたのは人の顔です。家具を満載にしたリヤカーをひいている出稼ぎの人たちは隙間のない剥き出しの顔をしています。強い印象を受けました。
それから上海に通うようになり、「この街で暮らしてみたい」と思いました。私にはもともと衝動的なところがあるのです。街を見渡してみて「私にもできるかもしれない」と思ったのは不動産の仲介業でした。いま考えると若気の至りですが……。
――和歌の研究者志望から上海で不動産仲介業。すごい振れ幅ですね。
日本語のできる中国人と組んで、続々と中国進出をしていた日本企業の駐在員向けの賃貸住宅を提供する仕事を始めました。大学院の学費を出してくれている両親にはもちろん内緒(ないしょ)です。反対されることは確実ですから。
日本人と中国人では、時間や約束に対する感覚が違います。当初は毎日のように怒っていた気がします。でも、次第に怒ることにも飽きてきて、一晩眠れば状況が変わることも分かってきました。
事業がなんとか軌道に乗った頃、仲介業だけでなくデベロッパー(不動産開発業者)にならないか、という誘いがありました。私は上海で暮らしていくだけのお金を稼げれば十分だったので、事業を大きくしていくつもりはありません。同時に、不動産には1ミリも興味がない自分に気付いたのです。
その頃に上海で日本人が巻き込まれる事件も起きていて、「このへんが潮時かな」と思って帰国を決めました。上海で暮らしたのは2年間ほどです。
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