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15年で売り上げ2倍 日本酒「紀土」の平和酒造社長が明かす「100円のパック酒から10万円の銘酒への転換」平和酒造4代目が考える「個が立つ組織」【前編】(2/4 ページ)

» 2021年05月26日 11時10分 公開
[河嶌太郎ITmedia]
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ベンチャーを起こすか、実家を変えるか

――ベンチャー企業にはどのくらい在籍していたのでしょうか。

 2年間ですね。正式に入社したのは2003年4月なんです。でも、当時はまだ少なかったんですが、学生のうちからインターンシップのようなことをさせてもらっていたんです。入社が決まっていた学生時代の02年から給料をもらって働かせていただいていました。

――家業を継ぐための勉強目的だったのでしょうか。

 当時はまだそれも迷っていて、入社した段階で、「自分もベンチャー企業を起こすか、実家を変えるかのどちらかをやりたい」とは会社に伝えていました。今だとこういう考えは珍しくないと思うのですが、当時はまだ終身雇用の考えも根強く、こういう考えを述べる学生は少なかったと思います。企業も僕の考えを理解してくださった上で採用してくれました。

 ただ、いざ入社してみると、自分でベンチャー企業を起こすことのハードルの高さを実感しました。今ほど若者の起業に対する支援も少なかったですし、コミュニティーも限られていました。そうなると、自分にはネットワークもないしアイデアもない。会社を立ち上げる資金もありませんでした。

――そのまま企業に残る道はなかったのでしょうか。

 人材派遣の会社ではそれなりに成果は出せていました。社内での評価も幸いにして高く、「株式も分けて山本君も幹部に……」という話もいただいたりもしました。ただ、こういう打診をいただいた時に、「あれ、このキャリアの延長線上に僕のやりたいことは無いな」と違和感を覚えてしまったんですよね。もちろん、人材派遣業で独立する選択肢もあったのだとは思いますが、自分の進みたいキャリア像とはちょっと違うなと悩み始めたのです。

――結果、実家に戻って家業を継ぐことになります。きっかけは何だったのでしょうか。

 悩んでいた時期に、たまたま父の体調が良くないことがあって、戻ってきてくれよと言われたんですね。それで、その言葉に乗ずる形で戻ってしまったのがきっかけです。正直に言うと、僕のちょっと後ろめたい感覚として今も残っています。

――やはり、自分自身で一旗揚げたかったという思いがあったと。

 そうですね。自分の力で何かを成し遂げたいという夢は小学校の頃からの夢でもありましたから、一つの夢が破れたような感覚はありました。京大を出て東京のベンチャー企業にも就職できたのですが、結局実家を継いだ形になりました。

(撮影:乃木章)

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