日本酒全体の出荷量が減少傾向にある中、若い世代を中心に「日本酒ブーム」が続いている。カップ酒やパック酒に多くみられる清酒の出荷量は10年前に比べ半分以下に落ち込む一方、吟醸酒や純米酒といった「特定名称酒」は出荷量を保持していて、日本酒のプレミア化が進んでいるためだ。
また、海外の日本食ブームもあり、日本酒の海外出荷は右肩上がりで上昇している。農林水産省の資料によると、日本酒の海外出荷額は1998年(平成10年)に34億円だったのに対し、2019年(令和元年)は234億円と、7倍弱まで伸ばしている。海外に輸出されている日本酒のうち約6割が特定名称酒であり、日本酒メーカーにとっては、ハイブランドな日本酒をいかに造れるかが経営のカギなのだ。
こうした時代の変化に対応し、ここ15年間で売り上げを2倍強に増やした酒蔵がある。和歌山県海南市に本社を置く平和酒蔵だ。銘酒「紀土」で知られる酒蔵で、「紀土」は、毎年ロンドンで開かれるワインコンテスト「インターナショナル・ワイン・チャレンジ(IWC)」の日本酒部門の最高賞である「Champion Sake(チャンピオン・サケ)」を2020年に受賞した。また、全国新酒鑑評会で金賞も受賞している。
そんな栄冠を勝ち取った平和酒蔵を率いるのが、山本典正社長だ。そんな平和酒蔵も実は先代まで、地元を中心に安酒を販売する酒蔵にすぎなかった。一体いかにして社内を改革し、世界的ブランドを得る企業へと押し上げたのか。その手法と戦略を前後編でお届けする。
――山本さんは京都大学経済学部で経営について学ばれたのち、2004年に実家である平和酒蔵に入社しました。11年に4代目として社長に就任しています。一体なぜ、家業を継ごうと思ったのでしょうか。
実は、最初は継ごうとは考えていなかったんです(笑)。伝統産業が嫌だったというより、父の姿を見ていて、酒造りは薄利多売な商売だなと思っていたからです。ただ、リーダーになりたい、経営者になりたいという野心は小学生の頃からありました。
――その野心のきっかけは何だったのでしょうか。
小学校2年生ぐらいの時、学級委員をしていたのですが、この時から人に指示されるよりも、自分で率先して指示を出していくほうが性に合っているなと思ったんです。経営者に憧れるようになったのは、小学校高学年ぐらいから日経新聞の連載「私の履歴書」を読むようになってからです。
当時は1980年代の後半だったんですが、本田技研工業の本田宗一郎さんとか、パナソニックの松下幸之助さん、ダイエーの中内功さんとか、日清食品の安藤百福さんとか、日本の経営史に残る人達が連載していた時期でした。まさにバブルでしたね。こういう人達の「履歴書」を読んで「すごいなぁ」と思う反面、「アンフェアだな」とも思っていました。
――アンフェアとは。
こうした方たちは戦争を体験して、戦後の焼け野原から立ち上がり、高度成長期を経て一大企業を築き上げていったわけじゃないですか。いうなれば戦国時代の大名のような、乱世の英雄ですよね。でも、僕がこのエピソードを読んでいたのは、こうした企業が出尽くしたバブル期のことです。生まれた時代が悪いな、とも感じていました。
そう思いながら少年期を過ごしていたのですが、転機は高校1年の公民の授業でした。「ベンチャー企業」っていうフレーズが出てきたんです。「何だそれ」と思って調べてみたら、米国で「ベンチャー企業」というのが流行(はや)っていて、日本でもこうした企業が少しずつ増えてきている、という解説がありました。95年ぐらいでしょうか。まさに戦国時代の武将のような生き方をしている人たちが今もいるんだと知ったんですね。
――1995年だと、検索エンジンのYahoo! JAPANや、ホリエモンこと堀江貴文さんのオン・ザ・エッジが立ち上がる前になりますね。
その当時は教科書を通じて知識を仕入れただけだったので、実感が湧かなかったのですが、その後もテレビのニュースを継続的に見ていくと、今まさに名前が出たベンチャー企業が出始めていきます。それで、大学を出たあとベンチャー企業に就職したい、と思うようになりました。
ただ、僕自身は文系で、あまりPCとかには興味がなかったんですね。他の分野のベンチャー企業を見てみると、大学生だった当時、人材派遣会社が隆盛していた頃でした。人には興味があったので、「エスプール」という当時はベンチャーだった人材派遣会社に就職しました。
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