大橋 お二人は旅の未来をどのように考えていますか?
米田 メタバースやバーチャルトリップといった仮想空間で旅を楽しむ時代になると、5〜6年前からよくいわれていました。しかし、私は現地に行って欲しい。リアルな体験をするためのツールとしてデジタルがあると考えています。
日本では都市部に人が集まり過ぎています。それがコロナ禍で海外に行けなくなり、地方に住む人が増えたり自分の居心地の良い場所を求めたりするようになりました。人々の目がもっと国内に向いたら面白いと思いますし、国内に人が流れる仕組みを作っていかなければいけないと思っています。
というのは人が行かなくなることで、なくなっていくものがたくさんあるからです。日本らしい風景や建物がどんどん失われていく。例えば、人が訪れなくなった古い近代建築を維持できなくなって解体することは頻繁に行われています。それってすごくもったいないことです。それを改善するには人が行くことです。すると残るべきものは残っていく。それが良い未来の日本だと考えています。
藍銅 私自身はバーチャル的なものが好きですが、身体を動かして移動して、現地に行ってみることも大事だと思います。小説の題材として江戸時代から幕末、明治期のものを取り上げることが多いのですが、取材で現地に行き跡地を見ます。貴重な古いものがそのまま残っていることはまれで、ただの跡地になっていることの方が多い。跡地に史跡の説明看板があってもそれすら注目されない。人が見に行くことは大事だと思います。
大橋 僕が読ませてもらった藍銅さんの作品はオリジナルアンソロジーシリーズ「NOVA」に収録されている「ぬっぺっぽうに愛をこめて」なのですが、古い日本の原風景や田舎のまち並みが出てきます。
藍銅 ぬっぺっぽうに愛をこめては10〜20年くらい前の日本が舞台で、古いまち並みにおばあちゃんが営んでいる駄菓子屋が出てきます。どのまちにもあったであろう駄菓子屋も今はそうそうありません。文章に残すことも大事な役割かなと思っています。
米田 小説を読んで「舞台はこんな風景かな」と思うのと反対に、残されている風景を見て「あの作品の舞台はこんな感じなんだろう」と思うことができると改めて思いました。
大橋 確かに駄菓子屋は見なくなって、数年で死語になる可能性もありますね。
藍銅 文章は漫画やアニメとは違い、絵的なイメージがないので、読んだ人がイメージする必要があります。そのイメージがなくなってしまうと文章も力を失ってしまいます。
大橋 古き良き時代の風景をバーチャル空間に再現しようとする試みもありますよね。
米田 それって楽しいのかと、聞いてみたいですね。私自身は楽しめないと思います。風景には空気感とかいろいろあります。そこに行って食べる、買うだけではないという気がしています。バーチャルの世界だけでは成し遂げられない体験はあると思います。
行く前に何かしらの情報を得るためのツールとしてバーチャルは残ると思いますが、最終的にはリアルな体験にシフトしていくのではないかと考えています。
藍銅 私はバーチャルな世界に味覚や感覚も備わって、よりリアルになっていくと思います。とはいえ、現地に行ってする体験が最も強度が高い。バーチャル空間は細部まで作り込んだ完成品だと思いますが、実際に行ったときの予期せぬものや偶然が私は好きです。
米田 作品の世界観の題材となっている場所に行ったとき、より深く知るためにバーチャルの力を借りないといけないかもしれません。例えば、今はない江戸城をバーチャルで見せるとか……。
大橋 駄菓子屋がなくなってバーチャル空間に駄菓子屋を作らないといけなくなるのは、ユートピアでしょうか、それともディストピアでしょうか?
藍銅 どうなんでしょう。バーチャルで駄菓子屋を作るとそれが正解になってしまいます。でも、文章で駄菓子屋を読んでいる人はそれぞれが思う駄菓子屋を思い浮かべると思うんです。実際に行ったことがある人はその風景が、行ったことがない人は懐かしさを心の中に描くこともあると思います。
米田 バーチャルで表示するメリットもあると思います。先ほど、江戸城をバーチャルで見せるといいましたが、膝栗毛のアプリではビジュアルも見られるので、その土地の古い絵などをアプリ画面に表示できます。実際の江戸城は、有楽町駅はもちろん四ツ谷駅や飯田橋駅、神田駅の方まで広がっていたそうです。
飯田橋から皇居の方を眺めて、「こんなところまで江戸城だったんだ」と想像をふくらませてみるのが大事だと思います。
大橋 江戸城の城壁跡は飯田橋駅の側にも残されていますが、多くの人はそれを興味を持って見ないし、そのために消えてしまうものもありますよね。
米田 旅には移動が付きものですが、電車や車で目的地を目指すときに窓から風景を全然見ていない人が多い。それもとてももったいない気がします。便利になったが故に省かれてしまった。点と点だけが残ってしまう。ドラえもんの「どこでもドア」が究極の移動手段として残るような世界観は残念な気もします。
藍銅 そうなると、新幹線でのんきに富士山を眺めるということもなくなりますからね。この間、久し振りに徳島に帰って、徳島の列車に乗っていると、窓の外にレンコン畑が広がっていて、それが良いなと思いました。特に観光地ではないんだけど、そういう風景を眺めるのも大事だと思います。
大橋 そんな風景を見ていて「いいな」と思いつつも、ついつい寝てしまうんですよね(笑)。
米田 見逃すことがないのが歩き旅だと私は思います。私の趣味は自転車なのですが、自転車でも見逃してしまうことがある。瞬間移動とは真逆の歩くということが、どこまで残っていくかだと思います。
大橋 瞬間移動でなくとも、リニアモーターカーのような点と点を結ぶ交通機関が発展すると歩き旅は廃れていくかもしれないですね。歩き旅を残すということが必要なのかもしれません。
米田 点と点の「間」を表現することが大事だと思っています。作家さんが小説で「間」の面白さをストーリーとして描いてくれると、「歩き旅もいいな」となるかもしれません。それは、アニメの聖地巡礼と一緒のような気がします。
藍銅 私自身、ぬっぺっぽうに愛をこめてで駄菓子屋を出したからといって、駄菓子屋を残したいという強い意識があったわけではありません。好きな題材を選んでいくとそういう組み立てになったという。また鯉姫婚姻譚も江戸時代と明記していなくて、読んでくれる人は江戸時代じゃないかと察してくれるという信頼関係で成り立っています。
米田 文章で表現する際、場所や時代、歴史、文化に人が興味を持ってもらおうという視点に少しでも入っていると、それが読者に伝わって、世界観を垣間見られる場所に行ってみたいと思う動機付けになると思っています。
大橋 ぬっぺっぽうに愛をこめてでは薬売りの行商人が登場します。現代では薬売りの行商人を見ることはありません。薬売りの行商人とはどんな人なんだろうと、自分の記憶の中にある映像を探したくなりますね。
米田 小説に食事の描写があると食べたくなるじゃないですか。そういう部分につながっていくように思います。
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