「猫の手も借りたい」「体がもう一つ欲しい」とはよく言ったもの。1つの体、2本の腕と2本の足ではできることにも限界がある。そんな限界を取り払おうとしているのが、東京大学先端科学技術研究センターの稲見昌彦教授だ。
稲見教授といえば「透明マント」(光学迷彩)の研究も有名だが、背中から生やしたロボットアームや、VR技術とメタバース空間の活用などを通じて「身体情報学」の研究に取り組んでいる。
人間は果たしてどこまで拡張できるのか。作中で“限界を決められたヒューマノイド”も描くアニメ「AIの遺電子」原作者の山田胡瓜さんと対談した。
(聞き手・執筆:井上輝一)
山田 まず僕の漫画の話なんですけど、人とヒューマノイドが共存するって設定を成り立たせる上で、ヒューマノイドも人間程度の力しか出せないように仕様が決められている、というのがあるんですね。AIはなんでもできてしまう、となると人と同じ立場にはならないから。稲見先生はどう思いますか?
稲見 そうしないと同じ社会で生きようとは思わないはずなので、規制や制約があるのは妥当じゃないでしょうか。
山田 稲見先生も拡張イケイケドンドンって感じでもないと。
稲見 研究としてはどんどんやっていいと思いますが、社会実装に当たっては「応援価値」というものがキーワードになってくるのではないでしょうか。
これは元陸上競技選手の為末大さんが言っていた言葉なんですが、議論としては、ドーピングが競技の上で問題なのはなぜかと。
薬物の場合、体によくないのは当たり前として。例えば電気的なドーピングというものがあります。経頭蓋直流電気刺激(tDCS)というのがあり、頭にいい感じに電流を流してあげるとちょっとバランス感覚が良くなったり、物覚えが良くなったりすると言われています。
しかもそれってやったかどうか現状の技術ではなかなか分からないから、禁止しようがないんですよ。さらにもし副作用もないとして、そういうものが出てきたときに「みんなやりますか?」という問いに対して為末さんがおっしゃっていたのが応援価値。そういうことをやっている選手を応援したいか。
そういう選手を応援したいって言う人が一定以上いるならばそれは使われるでしょうし、応援したいと思う人が少なければしばらくは採用されない。普遍的なラインがあるというよりは、時代とともに少しずつ変わっていくものですね。
応援したいと思うにはある種の制約というか、ある程度同じバンド内に収まっていてそれなりのミスもする。でないと共感も得られにくい。
うちの学生の研究で、ドライブレコーダーの映像を学習させ続けると人間と同じように間違える、錯覚する機械学習器ができたことがあります。要は、天下一品の看板と進入禁止の標識を見間違えてしまうような。
そういう、人と同じような認識をするような主体を我々は共感し、仲間として認識しやすくなっている。類似性が高いものに仲間意識を感じやすいんですね。
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