乗り物の操縦という観点で考えてみよう。米国サンフランシスコでは、自動運転タクシーの「Waymo」が配車アプリの「Lyft」を抜いたとして、自動運転は「未来ではなく今」の話になっている。
自動運転車は、自分のところまで配車してもらい、目的地まで向かうという、2点間を最短で結ぶものだ。自分で車を運転したくないが車移動は必要というのは、都市部の解である。そこには整備された道路があり、停車可能なスペースがあり、人間の運転者は法の基に交通ルールを守る。
一方で地方の町村では、道路上のラインが消失している、側溝にふたがない、でっかい水たまりがある、見通しは悪いがカーブミラーはない、鹿が横切る、木が倒れている、岩が落ちている、すれ違うにはどちらかが道路から外れなければならないなど、運転面で難易度が高い。
これでも問題なくやれているのは、高レスポンスで対応可能な人間がいて、それに直結した操作体系があるからだ。また相手方との阿吽(あうん)の呼吸といった、暗黙のコミュニケーションも重要になる。
自動運転は、高齢化社会の問題を解決する一つの手段となりうるという考え方もある。地方では車は生命線であり、高齢者が免許を返納すると生活が破綻する地域がある。そこに自動運転車サービスを導入すればいいというわけだ。
しかし現実には、事業として成立するための十分な利用者がいるのか、あるいは費用対効果として割が合わないため利用されないのではないか。都市部のソリューションを田舎に持ってきても、そのままでは機能しない。
加えて運転が好きだ、運転そのものを楽しみたいというニーズもある。すべてが自動化で解決するわけではない。
これは、AIエージェントに入れ替わらない領域は残るということである。つまり人間の高速なレスポンスによる操作が必要な分野は残るだろう。
宇宙船の操縦のような遠い未来の話ではなく、例えば映像領域であれば音声ミキサーやスイッチャー、映像編集機、カラーグレーディング装置などは、中身はソフトウェア化しても、専用コントローラーはなくせない。一方汎用的なUIであるマウスやキーボードは、GUIが一般的なコンピューティングの主力でなくなれば、一緒になくなる可能性がある。
では、そうした転換には、どれぐらいの時間がかかるのか。20世紀末に起こったCUIからGUIへの転換は、1984年のMacintosh登場をスタート地点、1995年のWindows 95の登場と普及までをエンド地点と仮定すれば、だいたい10数年で完了した。社会転換を伴ったが、ソフトウェア上のことだったので、かなり早いと評価できる。
一方、現代は当時よりも技術進化の速度が上がっているとはいえ、単にソフトウェアだけの問題ではなく、ハードウェアを伴う転換ということを考えれば、もっと時間がかかるだろう。
とはいえ、今を生きる我々は、旧社会と新社会の転換の入口に立っているということになる。両方が分かる立場として、この転換をより良いものにするために、進化に身を任せるのではなく、意識的に変化をコントロールしていく必要がある。
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