――近年では「ロボットや人工知能によって人間が職を失う」といった、“テクノロジーの負の側面”を強調する考えも広く取り沙汰されるようになりました。お二人はどう思われますか。
山本 やっぱり困るんじゃないですか。反発するんじゃないですか、人間は。だって記者の仕事がないとか、コンピュータが超面白い漫画を描いてくれるとか、プログラムも適当に指示したら書いておいてくれるとか、ねえ。特に、仕事とアイデンティティの結び付きが強い人はつらくなるんじゃないですか。
胡瓜 技術的な失業とか、それに伴ってベーシックインカムみたいなものを配布すべきかどうか、という議論もありますよね。人間は働かないで貴族みたいになっていくとか。
山本 そうなったときに人間は何をするか……その暇つぶしも(コンピュータが)提供してくれると思うんですけど(笑)。でも、自分より強い存在、賢い存在がいたら、人間は活動をやめてしまうっていうのはどうなんでしょうね? チェスなんかはコンピュータが20年近く前に人間を超えたといわれていますが、チェス文化そのものが衰退しているかというと、そんなこともないみたいですし。
胡瓜 僕も、人間はそれでも何かしらの形で活動を続けるんじゃないかなと思います。多くの仕事は、「機械が担当する形態」と「人間が担当する形態」とで、併存する状態が続いていくんじゃないかと。例えば飲食店なら、機械がやっているお店と、人間がサービスするお店で、役割が分かれていくとか。ボランティアや共同体などの形でも、人間は何らかの“役割”みたいなものを担っていくと思う。
――SFの世界では、コンピュータが物語を創作するというのは旧来からあるプロットで、日本語でも「あなたのための物語」(長谷敏司)のような作品が書かれています。また、実際にコンピュータに星新一のショートショート全編を分析させ、創作させる「気まぐれ人工知能プロジェクト 作家ですのよ」といった試みも始められています。胡瓜さんは、コンピュータがとてつもなく面白い漫画を描くようになったらご自身はどう感じると思いますか?
胡瓜 まず……学びは多いですよね。教師としての。こういう話も面白くできるのか! というような。
その一方で、作品の面白さって、やっぱりその“背景にいる人”(=作家)を読んでいるようなところもあると思うんですよね。完璧に面白い作品は確かに面白いんでしょうけど、完璧じゃない作品でも、「こういうものをどこかの誰かが描いたんだろうな」っていうところを読んでいるような部分がある。そういう人間が作り出すドラマというか、そこを面白いと感じているような部分があると思う。
山本 「単純に観賞する楽しみ」みたいなものは、減ってきているのかもしれません。例えば、昔だったら行きづらかった場所にある絶景の写真とかって、現在は手段の多様化によってあまりにも簡単に撮れるようになってしまって、すごく普通なものになってしまった。だから、「自分の体験と絡まないもの」の価値は下がっているんじゃないですか。
これは私が将棋を好きすぎるからなのかもしれないけど、羽生さんの――すごく強い棋士たちの棋譜の価値って、過去に比べて、私はちょっと下がったと思っているんです。これまでは比べるものがなかったのに、今は下手をするとコンピュータにちょっと読ませれば斬新な指し手、新手もバンバン出してきて、そちらの方が案外面白かったりする。だから、そこに「自分が絡まない」もの、鑑賞するためだけにあるものは(相対的に)価値が下がる。でも、それで自分が将棋を指したときの面白さが損なわれるわけじゃない。
胡瓜 最初に話した「エベレストの頂上は飛行機で簡単に見られる」っていうのと同じで、機械の方が将棋が強くなっても、羽生さんが勝ちを確信したときに手がブルブルって震えるのを見て「うわっすげー!」って思ったりとか、そういうドラマに感じるものって絶対あるはずなんですよね。
山本 そう、体験だけは奪えない。いくらコンピュータが将棋を強くなっても、漫画を描けるようになっても、人間にとっての「体験」だけは奪えないと思います。
(終わり)
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