――こうして山本さんは04年に実家の平和酒蔵に入社し、古かった組織を変えていくことになります。平和酒蔵はそれまでどんな会社だったのでしょうか。
もともと当社は、祖父の代まで京都・伏見にある酒蔵の下請けの酒蔵として経営をしていました。昔は桶ごと酒蔵に売ってしまうので、こういう下請けは「桶売り蔵」とも言われていました。
父の時代になって、「それではダメだよね」ということで、元請けへと業態転換しました。そこで父の取った戦略が、パック酒の製造販売でした。安い商品をどんどん作って、どんどん安く売っていく。そうすることで、蔵の設備も人も回転率を上げていくことができる。大量生産・大量消費型のものづくりの会社としてやっていきました。
――まさに昨今の日本酒ブームとは逆行する戦略ですね。
経営の考え方としては間違ってないと思います。ただ、当時既に、日本酒業界全体として長期低迷の時代に突入していました。日本酒業界の問題で言いますと、国内では1972年にピークを迎え、その後48年間かけてずっと右肩下がりなんです。出荷量に関しては最盛期の4分の1、つまり25%にまで落ちています。
こうした状況下で昨今の日本酒のプレミア化があるのですが、価格戦略を採ってしまうと、日本酒が水などの日用品と同じコモディティ商品になってしまいます。こうした商品として見られてしまうと、買い手の方からすると単純に味とかスペックとかよりも値段が安いかどうかなんですよね。こっちは70円でこっちは60円、そういう感覚のものに成り下がってしまいます。
――安さで勝負する日本酒はコンビニやスーパーで売られていますが、合成清酒で杜氏も置かずに工場で大量生産されている印象が強いですね。
その一方で、酒蔵としての品質へのこだわりもあるわけです。ですから、当時うちの酒蔵は、大量生産・大量消費の方針にもかかわらず、杜氏もちゃんといて昔ながらのものづくりをしながらやっていたんです。大学で経営を学んだ僕からすると、おかしい話だなと思いました。コモディティ戦略を採るなら、もっと製造設備を入れて、安く売るための機械を導入するのがセオリーなんですが、父はそれをしていなかったんです。
――誤解を恐れずに言えば、先代は“ちぐはぐ”な経営戦略だったということですね。
ただ、それが後々は功を奏している面もあります。というのは、僕が戻った時に、そういうところを変えなくても、少し立て直していけば良い状態で残っていたからなんです。今になってみれば、ラッキーだったのかなと感じています。大量生産の設備を導入してしまっていたら、今のように商品に高付加価値をつけることは困難でしたから。
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