「Safari」はスワヒリ語で「旅」を意味し、元来、アフリカで動物を観察して楽しむレジャーとは関係ない。この単語が英語の文献に登場するのは19世紀後半の話だ。
この時代、イギリスを始めとするヨーロッパの帝国主義国家は、アフリカへ盛んに探検家を送り込んでいた。その目的は他国に先んじて内陸部を調査し、帝国領土を拡大することにあった。デイヴィッド・リビングストンに代表される探検家たちは、大勢のポーター(荷物運び)やガイドを引き連れて、暗黒大陸と呼ばれていたアフリカの奥地まで踏み込んで行った。当初サファリというとこのような遠征を指したらしい。19世紀が終わりを迎える頃には大陸のほぼ全域が西欧列強の植民地と化した。
20世紀初頭になると、英領東アフリカ(現在のケニヤを含む地域)に入植したイギリス人たちは、キャンプをしながら野生動物の狩りをするようになり、これをサファリと呼んだ。キャンプと言っても、大型キャンバステントの中にベッドやテーブルを用意し、身の回りの世話はすべて召使いたちにやらせるというぜいたくなものだった。ハンティング・サファリは白人特権階級の間で人気を博し、遠くアメリカからアーネスト・ヘミングウェイやセオドア・ルーズベルトもやってきたほどだ。
狩りの主たる目的は、トロフィーの獲得、つまりなるべく立派な牙や角、あるいはたてがみをもった猛獣を撃ち殺し、その毛皮やはく製を自宅に飾ることにある(大き過ぎる場合は頭部や牙だけだったりする)。日本で釣り人が魚拓を家の壁に飾るのと似たようなものだろうか。
トロフィーとして特に望ましい種の大型動物をビッグ・ゲーム(Big Game)と言い、アフリカでハンターたちが最も好んだ5種類のビッグ・ゲーム、すなわちライオン、ゾウ、サイ、バッファローそしてヒョウをひとまとめにしてビッグ・ファイブ(Big 5)と呼ぶようになった。これらの言葉は現在の動物観察サファリでもそのまま使われている。
やがて、白人ハンターたちによる無造作な乱獲により、野生動物の数が激減すると、各地に動物保護区(ゲーム・リザーブ)が設けられた。今では「野生の楽園」と讃えられ、世界中の観光客を引きつけているタンザニアのセレンゲティ国立公園、南アフリカのクルーガー国立公園、ナミビアのエトシャ国立公園なども、創立当初の目的は環境保護ではなく、狩猟対象動物の数を増やすことにあったのだ。結果としては動植物や環境の保全につながったのだが、白人入植者たちは現地住民を強制的に追い出して保護区を作ったために大きな摩擦を生み、その後遺症は現在でも消えていない。
第二次世界大戦後、西ヨーロッパ諸国は植民地を維持する力を失い、1950年代から60年代にかけて、アフリカに次々と独立国家が誕生した。土地や利権を失った入植者の多くは大陸を去り、それに伴い狩猟サファリも下火となっていった。その一方で、大型旅客機のような高速で一度に大人数が移動できる交通手段が発達し、西ヨーロッパや北米の一般市民が気軽に海外旅行を楽しめるようになった。さらに、テレビの普及によって自然の美しさが茶の間に届くようになると、野生動物を見るためにアフリカを訪れる人の数は増加していった。
こうして「サファリ」は特権階級の血なまぐさい娯楽から、大衆のレジャーとして生まれ変わり、やがて欧米のみならず、日本を含め世界中から観光客を引きつけるようになったのである。今日、サファリは東アフリカや南部アフリカの経済を支える重要な産業の一つとなっている。
最後に補足しておくが、狩猟サファリも完全になくなったわけではなく、一部地域では存続している。ただ、動物に銃を向けるより、カメラを向けて写真を撮りたいと思う人の方がはるかに多いのである。
山形豪(やまがた ごう) 1974年、群馬県生まれ。少年時代を中米グアテマラ、西アフリカのブルキナファソ、トーゴで過ごす。国際基督教大学高校を卒業後、東アフリカのタンザニアに渡り自然写真を撮り始める。イギリス、イーストアングリア大学開発学部卒業。帰国後、フリーの写真家となる。以来、南部アフリカやインドで野生動物、風景、人物など多彩な被写体を追い続けながら、サファリツアーの撮影ガイドとしても活動している。オフィシャルサイトはGoYamagata.comこちら
【お知らせ】山形氏の新著として、地球の歩き方GemStoneシリーズから「南アフリカ自然紀行・野生動物とサファリの魅力」と題したガイドブックが出版されました。南アフリカの自然を紹介する、写真中心のビジュアルガイドです(ダイヤモンド社刊)
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