徒手空拳では生き残れない野良博士日曜日の歴史探検

余剰博士の問題は、大まかなくくりで語られることが多いのですが、勝ち組の博士とそうでない博士というのは、出身大学および大学院の序列によって、ある時点で予見し得るものです。人生の選択を留保した学生と、定員数確保という大学側の思惑がうまくはまった結果を再確認しましょう。

» 2009年10月18日 00時00分 公開
[前島梓,ITmedia]

 過去2回にわたって、博士(博士課程修了者含む)でありながら、その力を生かせない現状があることをお伝えしてきました。そのはじまりが文部省(現在の文部科学省)が1991年に打ち出した「大学設置基準問等の改正」があることはすでに説明しましたが、改めて余剰博士誕生までのプロセスをたどってみたいと思います。

 大学改革の方向性として示された「大学設置基準問等の改正」。これにより大学院重点化政策が採られることになったのですが、大学院重点化前における教育研究組織では、学部を有する大学が多くの権限を持ち、教員の所属も学部でした。大学の本体はあくまでも学部を有する大学で、大学院は大学の上に付属的に位置するという形だったのです。しかし、大学院重点化後、この関係は逆転します。教員の所属も学部ではなく、大学院の所属となり、学部の位置づけは大学院の下という認識となりました。

 大学の教育研究組織を従来の学部を基礎とした組織から大学院を中心とした組織に変更することを目的とした大学院重点化の取り組みは、1991年に東京大学法学政治学研究科、翌1992年に京都大学法学研究科、1993年に北海道大学理学研究科がそれぞれ重点化を行い、その後、2000年度までに北海道大学、東北大学、東京大学、一橋大学東京工業大学名古屋大学、京都大学、大阪大学九州大学の9大学で全部局の重点化が完了しています。これらの大学で行われた大学院重点化は、文部科学省からの予算確保を期待したものでもあったのですが、その前提として、定員数の確保が必要不可欠でした。「来たい人だけ来てください」という牧歌的なスタイルから、入学定員枠を満たすことを求められるようになったのです。

 大学院を戦略的に使った運営を行うという観点では、上記の大学院は早くから取り組んできたこともあり、いわば“勝ち組”に属します。その一方で、国の予算優遇措置をともなわない大学院の部局化を行った国立/私立大学や、ブランド形成のために大学院の設置を決めた私立大学の多くが、苦しい状況に陥ることになりました。大学院流動化を求める文部科学省の動きもあり、昨今では出身大学と所属大学院が異なっている院生というのは珍しくありませんが、多くの学生が大学院でのステップアップを狙い、“勝ち組”の大学院にこぞって進学するようになったことで、勝ち組でない大学は、自発的に進学したいという学生だけでは、定員数の確保が困難になってきたのです。

 こうして増えてきたのが、もともと大学院に進学するつもりのなかった学生、あるいは就職難で困っていた学生の大学院進学です。指導教官に誘われたから、などの理由で進学を決めた方もこうした層に属すといってよいかもしれません。人生の選択を留保した学生と、定員数確保という大学側の思惑がうまくはまり、数多くの学生が大学院へと進学していきました。

 しかし、彼らを待ち受けていたのは、この連載でこれまで取り上げてきたように過酷な現実です。出身大学が一流、あるいは戦略的に大学院重点化を図ってきた大学院に進学した場合は、その大部分がアカデミックな人生設計を立てることに成功していますが、その一方では、高学歴ワーキングプアがあふれかえってしまうという二極化が進むことにつながりました。アカポスを狙おうにも、そのほとんどが“勝ち組”大学院出身者のコミュニティーから輩出され、かといって民間企業は中途採用に近い形になりかねない博士課程修了者の採用をためらっていることから、必然的に大学にぶら下がり、クモの糸のようなチャンスを待ちながら年齢を重ねる以外の選択肢がなくなってしまいます。つまり、アカポスは博士号の有無や業績よりも、人脈やコネという要因が強いのが現実であり、高学歴ワーキングプアに転落しやすい博士と、そうでない博士というのは、出身大学および大学院の序列によって、ある時点で予見し得るものであることが分かります。

 こうして生まれてしまった余剰博士の受け皿として、文部科学省は1996年から「ポストドクター等一万人支援計画」を実施し、その救済を試みます。しかし、増え続けている博士課程修了者(博士号取得者含む)に対して1万人というのは、内実を見ても明らかに足りませんでしたし、そもそもポスドク後にアカポスに就けるというキャリアパスが確約されているものでもありませんので、一時的な救済策にしかなっていないのは明白です。特に、人文系の場合、ポスドクの枠自体が少ないため、博士後は非常勤講師くらいしか行き先がないのですが、その非常勤講師の口を見つけるのも難しくなっており、結果として、40代後半で優秀な人でも非常勤講師であることが珍しくない状態です。

 こうした現状に「大学は何をしているんだ」という声が上がりそうですが、大学全入時代を迎え、独立行政法人となった元の国立大学などでは、業績主義と大学の知名度アップを両立させるため、人員の淘汰(とうた)が進んでいます。常勤職であっても任期制が導入され、終身雇用で守られた世界が崩れつつあり、実質的には立場の弱いところから切り捨てられていく構造が続いています。想像するに、「(余剰博士の)面倒をみる余裕がない」というのが本音でしょう。今後、“勝ち組”と“負け組”の大学がより際立ってくると、この動きはさらに加速するでしょう。

 「余剰博士は無用の長物なのか」で登場した人文系の博士号を持つ香坂さん(仮名)は、「大学院に進学するのは自己責任である」と話していましたが、大学院、特に博士課程への進学は、そのあまりにも高いリスクの割に、メリットはほとんどないように思えます。これから大学院に進もうかという方は、進学とは何か、博士とは何なのかをじっくりと考えてみるべきなのではないでしょうか。

参考書籍

この問題を取り上げた、あるいは大学院とアカデミックな世界についての参考書籍を以下に紹介しておきます。興味のある方はご一読いただければと思います。


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