編集部から:本連載では、IT業界にさまざまな形で携わる魅力的な人物を1人ずつ取り上げ、本人の口から直接語られたいままでのターニングポイントを何回かに分けて紹介していく。前回までは、漆原茂氏の中学入学までを取り上げた。今回、初めて読む方は、ぜひ最初から読み直してほしい。
「PC、というかコンピュータは、やっぱり当時は面白いと思いましたね!」
中学生になった漆原少年は、当時世に初めて登場したばかりのワンボードマイコン(PCの原型)に早速飛びつく。
PCが一般に普及している現在とは異なり、当時はまだ「個人用のコンピュータ」というコンセプト自体が新しかった時代だ。ハードウェアは8ビットの簡素な造りで、ソフトウェアも簡単なゲームが少数あった程度である。
漆原少年は父親を説き伏せ、マイコンを手に入れる。漆原氏の父親は、新聞社で機械系/電気系の仕事に就いていた。同氏いわく「父は編集者や記者ではなく、編集局内の技術的な仕事をしていました」とのこと。そのため、父親も目新しい機械には目がなかった。ある日突然、当時はまだ珍しかった8ミリカメラなどを買ってきて周囲を驚かせていたという。
そんな機械好きの父親の理解もあり、首尾よく自分専用のマイコンを手に入れた漆原少年。早速ソフトを動かして遊んでみる。ここまでは、マイコン少年なら誰もがたどる道だが、ここから先、興味を向ける矛先が個性的でなかなか面白い。
「これは不健全な遊び方だったのかもしれませんが、『ゲームをやりたい』というよりは、『ゲームがどう動いているのかを知りたい』という欲求の方が強かったのです。ゲームをやっていると、クリアするための“技”や“コツ”などが分かってくるのですが、そこにゲームを開発した人の“意思”を強烈に感じたのです。なぜこのような動きにしたのか? なぜこのような仕掛けを入れたのか? そういう、製作者の意図を知りたくなったのです」
小学生のころから育まれてきた探究心が、マイコンのゲームに対して向けられたのである。そして早速、自身でも簡単なゲームを作ってみたのだ。当時はまだ、マイコン用のプログラミング言語もあまりなかった時代。アセンブラや初期のBASICなどを駆使して、ゲームや簡単な画像レンダリングプログラムなどを作成した。
もちろん、持ち前の探究心はプログラミングだけでなく、マイコンのハードウェアに対しても向けられた。秋葉原に出掛け、いろんな電子部品を買ってきては自作のマイコンを組み立てる。
「こういう話をすると、オタクだと思われてちょっと嫌なんですけどね」と照れくさそうに笑いながらも、「あのころは、コンピュータといえばソフトウェアではなく、まだハードウェアの時代でした。CPUでいえば、Z80や8086などが主流のころですね」と、漆原氏は当時のことを懐かしそうに振り返る。
後述するが、現在ではソフトウェアの世界に携わっている同氏だが、若かりしころはハードウェア分野に長く携わっていた。その原型となったのが、ちょうどこのころの体験だったのかもしれない。
こうしたコンピュータ遊びの趣味は、中学、高校時代を通じて続けていたという。 ここまでの話を聞くと、いわば「パソコン少年」の走りともいえる少年時代のように聞こえるが、本人いわく、
「まるで典型的なコンピュータオタクだったように聞こえるかもしれませんが、決してそうではなかったんです。コンピュータはあくまでも片手間の遊びで、むしろ学校の部活の方に力を入れていました」
とのこと。ちなみに、部活は何をやっていたのか?
「卓球をやっていました。中学の3年間と高校の受験勉強が始まるまでの2年間、計5年間卓球部に所属していました。いまでも温泉卓球なら負けませんよ」
卓球部の活動には、かなりまじめに打ち込んでいたようだ。なるほど、同氏の快活でエネルギッシュなキャラクターは、コンピュータ遊びよりもこうしたスポーツ経験を通じて培われたものなのかもしれない。そのほかには、どのようなことをして中学・高校時代を過ごしたのか?
「部活のほかには勉強ですね。勉強が面白かったんです」
勉強が面白い?
筆者が信ずるところによれば、世の中の99%の人間は「勉強はつまらない」と考えているはずだ(もちろん筆者自身も、この99%の中に含まれる)。「勉強が面白い」とは、一体どういう感覚なのだろうか?
この続きは、5月19日(水)に掲載予定です。お楽しみに!
▼著者名 吉村 哲樹(よしむら てつき)
早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。
その後、外資系ソフトウェアベンダでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。
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