このままだと来月の給料はねえぞ感動のイルカ(1/2 ページ)

電話をかけ続けるフリをしていた1週間。売り上げはまったく上がらず、訪問実績もなかった。営業会議で「このままだと来月の給料はねえぞ」と部長。フルコミッション営業の厳しさにおののく猪狩浩であった。

» 2009年04月02日 18時30分 公開
[森川滋之,Business Media 誠]

あらすじ

 ビジネス小説「奇跡の無名人」シリーズ第3弾「感動のイルカ」は、アクティブトランスポートの代表取締役CEOである猪股浩行さんの実話に基づく物語。主人公の猪狩浩(いかり・ひろし)は、よく理解しないままフルコミッションのテレアポ営業の職に就いた

 どうせ辞めるなら惜しまれて辞めてやると誓った浩だが、アポはまったく取れなかった。自分に営業の電話がかかってきても嫌なのに、人はもっと嫌だろうと思ってしまったからだ。浩は多くの時間を電話をかけたフリに使っていたのだった。


 電話をかけ続けるフリをしていた1週間。当然、売り上げはまったく上がらなかった。もちろん訪問実績もなかった。

 週1回の営業会議。その存在すら猪狩浩(いかり・ひろし)は知らなかった。集合の声がかかったので、みんなについて会議室へ行ったら、営業部長がホワイトボードの前の席でものものしい顔をして座っていた。ホワイトボードには、模造紙に書かれた営業実績のグラフがマグネットで張られていた。

 グラフには、訪問件数と売り上げ実績が個人別に一目で分かるようにかかれていた。浩は真っ青になった。一番右の空欄の下に「猪狩浩」と書いてあったからだ。

 「今週は、全体にボロボロだな。特に先週来た連中、何してたんだ?」。部長が低いドスの利いた声で、そう言った。

 「おい、猪狩」

 「はっ、はい」。浩は、怒鳴られるのを覚悟した。しかし、部長の次のセリフは、怒鳴られるよりショックだった。

 「お前、このままだと、来月給料ねえぞ」

 「えっ?」

 「説明あったよなあ。うちは、フルコミッションだって」

 「あ、はい。でも、意味が良く分からなくて……」

 「あん?」

 「フルコミッションって何ですか?」

 部長は、怒るよりもあきれてしまったという感じで、こう言った。

「フルコミッションってえのは、日本語にすると完全歩合制。つまり、売り上げがなければ、給料がもらえないってことだ。最低基本給と交通費だけは出してやるが、おまえ、それだと家賃も払えねえぞ、きっと」

 浩は目の前が真っ暗になった。どんな叱責よりもこたえた。浩の落胆した顔を見て、それ以上の叱責は必要ないと思ったのだろう。部長は引き続き、ほかの営業成績の悪い連中を1人1人つるし上げていった。怒鳴ったり脅したり、およそ人間の尊厳など考えていないセリフが続いたが、浩の耳には一切入ってこなかった。

 営業会議というより、叱責大会と言ったほうが正しい会議は、30分きっちりで終わった。無意識のうちにみんなについて歩いたのだろう。気がついたら、浩は自分の席にいた。

 これは、電話を掛けているフリをしててもダメだ。浩は観念して、研修で教わったとおり電話帳で1つの業種を選び、電話を掛け始めた。

 1軒目は話し中だった。浩は正直ほっとした。2軒目は、呼び出し音が鳴った。浩の心臓が高鳴った。電話を取る音がした。「お世話になっております。××工業です」。電話の向こうから人間の声がした。

 営業トークのマニュアルは一応ある。その通りに「OA機器を販売しております○○商事と申します。ご担当の方はいらっしゃいますでしょうか」と震える声で言った。

 「ん? 営業ですか?」

 「はい」。真っ正直に浩は答えた。

 「間に合ってるよ」という声と同時に電話が切れた。

 浩は、すぐに電話を掛ける気にはなれなかった。非常階段の踊り場にある喫煙所にまっすぐ向かった。課長がきつい目で浩がどこに行くのか注目していた。部長にちゃんと面倒を見ろと言われたからだ。課長はよほど声をかけようかと思ったが、自席の電話が鳴ったので止めた。

 タバコを吸いながら、浩はなんでこんな仕事を始めてしまったのだろうと後悔していた。新潟から追われるように東京に出てきてから2年経っていた。

 最初は、赤坂の20席ぐらいあるナイトクラブで働いた。ホールスタッフの募集だったが、仕事場はキッチンだった。人見知りの浩には向いていたが、なんとなく働いている実感や喜びがないので、最初の給料をもらうと同時に辞めた。

 次は、自動販売機ベンダーの配達係をやった。これはトラックを運転して、ドリンク類を入れ替えるだけの仕事だった。最初は東京の道が良く分からず苦労した。荒い先輩の多い職場だった。ちょっとしたことで怒られた。たまに、手や足が出ることもあった。

 高校時代、不良と呼ばれていた浩は、暴力には慣れていたので、耐えることができた。理不尽だから辞めるという発想は浩にはなかった。どうせ辞めるなら、こいつら全部見返してやる。そして、惜しまれて辞めてやるんだと思った。赤坂のナイトクラブで誰も引き止めてくれなかったのが、心の傷になっていた。

 給料は良かった。20歳前で手取りが月に30万円ぐらいあった。そのうえ、ドリンク1本につき何銭という単位だったが搬送量による歩合が出た。搬送路を工夫すると運べる本数が増える。研究の成果が出て、ある月トップになった。それで仕事が面白くなった。

 労働基準法など無視で、朝から晩まで、正月も返上して働く仕事だったが、浩は一生懸命やった。友達もいなかったので、働く以外楽しみもなかった。そのせいで、搬送量はどんどん増えていった。

 辞めると言ったときは、本当に引き止められた。数カ月延長したが、ほかにも気になる仕事があった。ほかの仕事というのが、今の仕事である。

 なんでこんな仕事に就いちゃったか……。後悔はしたが、辞めない理由も思い出した。「こいつら全部見返してやる。そして、惜しまれて辞めてやる」これこそが、浩が仕事を続けるモチベーションなのだ。

 ちくしょう、1軒断られたからって何だ。絶対に見返してやる。

 机に戻った浩は、次々と電話を掛けた。営業と分かっただけで電話を切る相手がほとんどだった。中には、気が弱いのかずっと聞いている相手もいた。これは売れるかもと思ったら、単にヒマなだけで、やっぱり断られた。そんな電話の掛け方じゃ売れないと説教する相手もいた。すぐに切ってくれる相手のほうがマシだと、だんだんと思うようになった。切られまいとしてしつこく話をする営業マンもいるが、浩はそんなことはやろうとも思わなかった。それこそ時間のムダだ。

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