猛勉強の原動力は“彼女と結婚したい気持ち”挑戦者たちの履歴書(82)

編集部から:本連載では、IT業界にさまざまな形で携わる魅力的な人物を1人ずつ取り上げ、本人の口から直接語られたいままでのターニングポイントを何回かに分けて紹介していく。前回までは、ジュニパーネットワークス社長の細井洋一氏が米国留学するまでを取り上げた。今回、初めて読む方は、ぜひ最初から読み直してほしい。

» 2011年02月04日 12時00分 公開
[吉村哲樹,@IT]

 1977年、米国バーモント州の語学学校を修了した細井氏は、メイン州ウォーターヴィル市にある私立コルビー大学の経済学部に編入する。慶応大学法学部の1、2年生時に取得した一般教養学科の単位をそのまま引き継ぎ、コルビー大学には3、4年生の専門課程から編入する形となった。

 「慶応大学で取得した単位を認めてくれたのが大きかった。おかげで3年生から編入することができたんですが、『A評価が少ないな。C評価ばっかりじゃないか』とは言われたけどね!」

 米国留学当時のことを振り返る細井氏の第一声は、「とにかく勉強した!」である。それまではスキー一筋の人生で、学業は二の次だった細井氏だったが、このコルビー大学留学中の2年間は、これまでの人生の中で最も勉強した期間だったという。

 「毎日夜中の3時まで勉強して、翌朝の7時には登校していました。1日4時間ぐらいしか寝てなかったけど、でも元気だったなあ」

 日本の大学は、一般的に入るためには入学試験の高いハードルを越えなければいけないが、逆にいったん入ってしまえば卒業するのはさほど難しくない。しかし、米国の大学はこれとはまったく逆だ。入学するのはさほど難しくないものの、在学中に猛勉強しなければ卒業できない仕組みになっている。

 ましてや、細井氏が編入したのは経済学部。日本の大学で学んだ法学とはまったく畑違いの分野だ。さらに当然のことながら、講義や試験は全て英語で行われる。卒業にこぎ着けるまでには、相当の苦労があったに違いない。しかし、細井氏には意地でも卒業しなくてはならない理由があった。前回紹介した通り、語学学校で知り合ったコロンビア人のガールフレンドの存在だ。

 「当時は、もう彼女と結婚するつもりでいましたから、もし卒業できなかったら申し訳が立たないという気持ちがあったんです。それがあったから、頑張れたんだと思います」

 愛の力、恐るべしである! しかし、細井氏はただがむしゃらに頑張っただけではない。そこは抜かりのない同氏のこと。大学の講義が始まって真っ先にやったのが、テキストの日本語訳の入手だった!

 「親父に電話して、大学で使っているテキストの日本語版を丸善で探して送ってもらったんです。留学1年目は、そうして入手した日本語版テキストを徹底的に予習して講義に臨みました。2年目になると英語力も身に付いてきて、何とか英語のオリジナル版だけで理解できるようになりましたけどね」

 こうして、何とか講義にはついていけるようになったものの、最も難儀したのがレポートや論文の作成だ。当然、全て英語で書かなくてはいけない上に、大学で提出するレポートともなれば、初歩的な誤字脱字は許されない。

 ここでも、細井氏は一計を案じる。ルームメイトの妹がたまたま同じ大学に通っていたので、こう持ち掛けてみた。「俺が数学を教えてやるから、その代わり俺のレポートを代理でタイプしてくれないか?」。果たして、この作戦は大成功を収め、細井氏は英語でのレポート提出という高いハードルをことごとくクリアしたのだ。

 ちなみに、卒業論文のテーマは「戦後日本の経済史」だった。戦後日本における高度経済成長について考察した内容で、

 「卒論の詳しい内容はあまり覚えていないんだけど、確か『日本の生産設備は戦争で破壊し尽くされたので、逆に戦後は最新設備を導入しやすくなり、そのことが高度経済成長の一因になった』といったようなことを書いた覚えがありますね」

 この論文は学内での評価も高く、「卒業後もぜひ大学に残していってくれ」と頼まれたという。こうして人生初の猛勉強の努力が実り、1979年、細井氏は無事コルビー大学を卒業する。


 この続きは、2月7日(月)に掲載予定です。お楽しみに!

著者紹介

▼著者名 吉村 哲樹(よしむら てつき)

早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。

その後、外資系ソフトウェアベンダでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。


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