私のネットライフは、チャットルームの存在を知ることで本格的に幕を開けた。
自分用のパソコンを買ってもらい、自宅がネットにつながっても、しばらくは好きなゲームの攻略情報を見るくらいだった。本格的にネットにハマッたのは、「知らない人とチャットする楽しさ」を体験し、「チャットルームの常連」になり、「顔も知らないネット友達」が何人もできてからだったのだ。
ということで今回は1999年の夏、高校生の私がチャットルームに入り浸っていた頃の話である。
私が通っていたのは、漫画のファンサイトに設置されたチャットルームだった。自分と同じ十代の参加者が多く、二十代のメンバーですら珍しいほどだった。
さて、チャットに参加するには、自分の名前を決めなくてはいけない。いわゆる「ハンドルネーム」というやつである。これに関しては前回も書いたように、私は「マダム」という恥ずかしい名前を使っていた。
そこでは、名前の文字色を設定することができた。文字の色で個性を出すわけだ。私はパープルを選んでいた。マダムは赤紫の服を着るからである。
名前と文字色を設定すると、いよいよ入室である。
マダムさんが入室しました
そして、顔も知らないどこかの誰かと会話するのである。
平日の夜、二時間ほどチャットすることが習慣になっていた。日によってメンバーは違うが、通っているうちに常連の名前を覚え、仲良くなっていく。当時の私は石川県に住んでいたが、メンバーは大阪や東京や九州などさまざまだった。
常連たちのハンドルネームは、いまだに覚えている。
アトム
ごはん
テンプル
刹那
1
ぜろ
サッカーボール
エスプレッソ
パッと見ると無意味な単語の羅列のようだが、すべて参加者のハンドルネームである。食べ物や飲み物、思い付きの英単語から単なる数字までさまざまだった。要するに何でもありだったのである。この並びだと、私がマダムと名乗っていたことも、そこまでおかしくないだろう。他の奴らも全員おかしいんだから。
チャットの男女比は半々だった。アトムは女の子である。テンプルは男だった。ごはんは女の子である。そしてマダムこと私は男だ。名前から性別が判断できないというのもハンドルネームの特徴である。実際にチャットしないと性別すら分からないのだ。
いま思うと、ハンドルネームでの会話はシュールだった。
例えば、「マダム」と「エスプレッソ」が会話するのである。飲む側と飲まれる側じゃないか。エスプレッソと話すマダム。頭がおかしくなった貴婦人の昼下がりという感じ。そこに「ごはん」が入室してきたりする。食い合わせが気になるところである。
「1」と「刹那」の会話なんか、哲学めいた雰囲気が出てくるだろう。そこに「ぜろ」が入室してきたらたまらない。難解な観念小説のようだ。なのに会話は「学校で運動会があって……」。かなり奇妙である。
性別どころか人の名前にすら見えないというのは、ハンドルネームの困った点だったかもしれない。
当時、家にパソコンとネット環境がある高校生というのは、非常に珍しい存在だった。インターネットに夢中になっているというのは、クラスメイトに言うと引かれてしまうことだったのだ。これは本当に、今と昔で大きく変わった点だと思う。今じゃ普通の高校生もスマホでネットを見て、ツイッターなんかをやっているわけだから。
当時の私は、チャットに通っていることを学校の友達には秘密にしていた。マダムとしての自分をひた隠しにしていたのである。昼は普通の高校生、しかし夜はマダムに変身。アホみたいな二重生活である。
「ネット? パソコンの授業でしか見たことないわ」
そんなスタンスで高校生活を送っていた。演技力は鍛えられたが、一度、あまりにも意識しすぎて、
「ヤフー? なにそれ?」
と言ったことがある。あれは完全に失敗だった。1999年の時点でも、みんなヤフーくらいは知っていたからである。「おまえ常識なさすぎない……?」と逆の意味で引かれていた。「タモリ? 誰それ?」みたいな発言に聞こえたんだろう。
私のチャット通いは、一年ほどで自然に終わった。
学校が忙しくなったからなのか、単に飽きたのか、理由は覚えていない。仲の良かった常連たちとも徐々に連絡を取らなくなり、やがて交流は完全に途絶えた。このあたりは普通の人間関係と同じだろう。人生は出会いと別れのくりかえしなのだ。
出会いという種がまかれた時、すでに別れの花が咲くことは約束されている。そうしてわれわれは大人になっていくのだろう。しかし今でも私は、ふと空を見上げて思うことがある。もう二度と会うことはないけれど、あの頃のチャットルームの仲間たちも、きっとこの空の下、どこかで元気にやっているだろうと。アトムもごはんもテンプルも、エスプレッソもサッカーボールも――。
イイ話で終わらせたくても、ぜんぜん締まらない。
これもハンドルネームの困った点である。
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