――鳥嶋さんは先ほど「鳥山明さんの才能は漫画を知らないことだ」とおっしゃいましたが、鳥山さんの才能を引き出すためにどんな働きかけをされたのでしょうか?
鳥嶋: 「作ってはつぶす作業」を繰り返しましたね。鳥山さんは朝起きられない人で、会社を辞めてしまっていました。それで親から1日500円もらって生活していたのです。でもこの生活をいつまでも続けることはできない。だから「2年以内に職を見つけろ」といわれていました。だから何とかしなければいけない。
鳥山さんは当時名古屋にいて絵が描けたので、選択肢はイラストレーターになるか漫画家になるかでした。ただイラストレーターは「なり方」が分からない。「じゃあ漫画だろう」と思って、喫茶店で見た漫画雑誌の新人賞に応募することにしました。それで見よう見まねで漫画を描き、『マガジン』の賞に送ろうとしたら締め切りが過ぎていたのです。半年に一回しかやっていませんでしたから。それで毎月作品を募集していた『ジャンプ』に応募したのです。その原稿を見たのが僕でした。
鳥山さんは初めから絵がうまかったので編集長が気に入ってくれました。それで雑誌にすぐ掲載できたんです。しかしこれが読者アンケートでぶっちぎりのビリでした。票数が19票かな(笑)。
――当時の『ジャンプ』で19票は相当少ないですよね。
鳥嶋: 表紙よりも票数が少なかったですからね。僕も新人編集者だったので、連載作品を作らないと仕事がないわけです。だから、お互い見よう見まねで漫画を作ってはつぶし作ってはつぶし、を繰り返しました。鳥山さんと約束していたのは「週に1度は原稿を送ること」でした。
ただ、彼はそれこそ漫画を見よう見まねで描いた人だからネームの存在を知りませんでした。絵コンテを描かず、いきなり下絵を描いていました。途中から「これだと効率が悪い」と思い、本宮ひろしさんのネームを見せながら「こういうの作れる?」と提案したら、鳥山さんから「きちんと絵にしないと僕には無理です」と言われました。だから、「じゃあ下絵でも全部ボツにしても大丈夫?」と聞いたら「大丈夫」だと。ではそれで行こうとなりました。
それで約1年半をかけて『Dr.スランプ』ができたのです。鳥山さんは近所に引っ越しをするとき、押し入れから僕にボツにされた原稿が500枚も出てきたと言っていました。よく数えたな、と思うんですけど(笑)。それだけ作って壊して、を繰り返して、ようやく鳥山さんもきちんとした原稿が描けるようになり、僕もきちんとした打ち合わせができるようになったのです。
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