1人の天才との出会いで人生が大きく狂う挑戦者たちの履歴書(36)

編集部から:本連載では、IT業界にさまざまな形で携わる魅力的な人物を1人ずつ取り上げ、本人の口から直接語られたいままでのターニングポイントを何回かに分けて紹介していく。前回までは、青野氏が大学院への進学でなく就職を決意するまでを取り上げた。今回、初めて読む方は、ぜひ最初から読み直してほしい。

» 2010年08月04日 12時00分 公開
[吉村哲樹,@IT]

 大学4年生に進級した青野氏は、卒業後は大学院には進学せずに就職する決心を、このとき既に固めていた。机上の学問を追い求めるのではなく、プロのプログラマとして企業の開発現場でもの作りに携わる道を選んだのだ。4年生になり、大学のカリキュラムに従い研究室に入ることになったが、既にこのときから就職活動を始めていた。

 ちなみに研究室では、シミュレーションソフトウェアのアルゴリズムの研究を行っていたという。いかに少ない計算量で人間社会のシミュレーションを効率的かつ正確に行うか、という研究テーマだった。

 「ただ、“人間社会全体”というと対象が広すぎるので、実際にシミュレーションの対象にしていたのはビルの空調でした。ビルの中の空気の流れを数式で正確に計算することは難しいので、ざっくりとしたシミュレーションができないか、という研究に取り組んでいました。空調の定性的なミュレーションができれば、空調設備が壊れて空気の温度が変わったときにすぐ検知できるようになるのです」

 このとき、既に就職することに決めていた青野氏だが、話を聞く限りでは研究にも非常にまじめに取り組んでいたようである。

 しかし、当時の同氏にとっては、卒業後にプロのプログラマになることが最優先事項。この当時、入社試験を受けた企業の中には、ゲームメーカー「コナミ」もあったそうだ。先述したように、中学生のころからゲームのプログラミングに熱心に取り組み、中学卒業時には本気でゲームメーカーにプログラマとして就職しようかと悩んだほどの同氏。そのときはいったん、ゲームプログラマになる道をあきらめたが、

 「何だかんだ言って、やっぱり“ゲームプログラマ”という選択肢はぼくの中にずっと残っていたんですね」

 これほどまでにプログラマの道にこだわっていた青野氏だが、ここで一大転機が訪れる。大学の研究室である人物との運命的な出会いがあったのだ。この人物と出会ったがために、同氏は自身の人生設計を大きく転換せざるを得なくなった。

 その人物とは、サイボウズの共同創設者であり、現在、同社取締役とサイボウズ・ラボ株式会社の代表取締役社長を務める畑慎也氏である。青野氏が大学4年生のときに入った研究室に、当時大学院の1年生だった畑氏も所属していたのだ。

 「今でもはっきり覚えていますが、畑との出会いは本当に衝撃的でした。それまでは、自己流ながらも自分のプログラミングスキルは同級生たちよりも相当優れていると自負していました。しかし、畑はまったくレベルが違いました。もう、努力ではとても追い付けないほどのレベルです」

 畑氏の人並み外れたプログラミングスキルに間近で接した青野氏は、自信をこっぱみじんに打ち砕かれる。「自分の実力では、畑先輩に勝てる日は永久に来ない」。そう悟った青野氏は、何とここでプログラマになる道をすっぱりとあきらめるのである。

 ある意味潔い決断ともいえるが、しかし比較の対象が泣く子も黙る天才プログラマとして業界に名をはせる、あの畑氏である。青野氏だって、畑氏には敵わないにせよ、相当なレベルのプログラミングスキルを持っていたはずだ。プロのプログラマとしても、十分に通用していたのではないだろうか?

 「出会ってしまったものは、もうしょうがないですよね。野球でいえば、松坂を見てしまったようなものです。『絶対勝てるわけがない!』と思いました」

 もう、プログラマの道はきっぱりあきらめよう。自分の人生を、いったんここでリセットしよう。畑氏と出会ったことで、青野氏はこう思うまでに至る。それほどまでに、畑氏との出会いは青野氏に衝撃を与えたという。

 しかしこのときは、まさか将来一緒に会社を興すことになろうとは、両氏とも夢にも思っていなかったことだろう……。


 この続きは、8月6日(金)に掲載予定です。お楽しみに!

著者紹介

▼著者名 吉村 哲樹(よしむら てつき)

早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。

その後、外資系ソフトウェアベンダでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。


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