「ビジョンを示してくれないと困る」と部下から詰め寄られた田所。ビジョンがなぜ重要なのか、そもそもビジョンとは何なのか――。
田所晋一(30歳)が営業推進課の課長になってまもなく1年がたつ。年上の部下をマネジメントする難しさを感じながらも、何とかはじめての管理職として過ごしてきた。しかし、物思いにふける暇などない。今日は来期へ向けての目標設定ミーティングだ。
第2回:やっかいな部下との評価面談、成功のカギは「納得を引き出す」
第3回:「サムライジャパン」に込められた意味とは――リーダーならビジョンを示せ
第4回:「予想外」をチャンスに変える――マネジャーとしてのキャリア開発
「この職場の責任者として、田所さんにはビジョンというものが無いんですか?」
イライラを隠さない、はき捨てるような大久保の言い方にひるんだのは田所本人だけではなかったが、そんな周りの反応をよそに大久保の目は田所だけを凝視していた。
来年度に向けて、営業推進課として何をやっていくか、そのための役割分担をどうするか、目標設定ミーティングをやっているときだった。大久保の普段は甲高いそれとは似つかないほど怒りに満ちた声だった。会議のはじめからつまらなさそうな態度をとる大久保を、田所は少しだけ気にしていたが、そのうち前向きに参加してくれるのだろうと安易に考えていた。
「ビジョンなどという夢のような話より、今の我々は具体的な目標というゴールに向かってまい進するときだと思っています」
苦し紛れではあったが、防戦一方になってはいけないと思いで大久保に反論した。
「目の前の目標だけで、人間がやる気になるとでも思ってるんですか。もっと我々がそこに意義を感じることができる長期的な展望が必要じゃないんでしょうか?」
大久保も切り返す。何かによほどの不満を感じているのか、それとも本当にこの職場を良くしたいという一心からこのような言動をとっているのか、田所はつかみかねていた。
「田所さんだけにビジョンを考えろというのは酷じゃないかな」
助け舟を出してくれたのは、意外にも大久保と一番仲の良い飯塚だった。
「所詮他人がつくったビジョンに、心から納得できるようなことはないんだし、ある程度自分なりのビジョンを創っていくことが我々にも求められているのだと思うよ」
何人かのメンバーも飯塚の話にうなずいているので、田所は内心ホッとしていた。しかし、当の大久保は「組織の責任者がまずはビジョンを示すべき」という主張を曲げず、その後も飯塚との議論を、田所そっちのけで続けていた。
田所は2人の話には耳を傾けず、ビジョンの重要性や、そもそもビジョンとは何かということの自問自答を静かに繰り返していた。冷静に考えてみると、今の自分には何を目的に、どうビジョンを示すのか、何のアイデアもない状態に近いと気づいた。
一体何回目の相談になるだろう。時間を割いてもらうことに対し「申し訳ない」とは思いつつ、先輩の杉浦がいつも受け入れてくれるので、その言動に完全に甘えてしまっていた。
「それで? 君はどんなビジョンを打ち出そうと思っているの?」
「はい、とりあえずは『頼られる営業推進、開かれた営業推進』というメッセージを、特に営業部門にむかって発信したいと思います」
「うーん、なかなかいいじゃない。で、その心は?」
杉浦は茶目っ気たっぷりに右手に持っていたボールペンをマイクのように田所に近づけた。しかし、
「心?」田所は杉浦の言葉を復唱するだけで答えに窮してしまった。
「そう心だよ、どうしてこのビジョンを示そうと思ったのか、その背景にあるものを自分なりに明確にすることから始める、これがなければビジョンとはなりえない」
さすがは杉浦だった。すでにビジョンの導き方まで熟知している。さらにマネジャー駆け出しの自分にも分かりやすい言葉を使ってくれていた。
杉浦の口から「背景」という話をきいたとき、大久保がビジョンを欲しがった理由が少しだけ分かった気がした。大久保はきっと目の前の目標達成に突き進む理由としてのビジョンや、そもそもの営業推進のミッションを明確にしたかったのではないだろうか。
「田所、WBCの原監督が掲げた言葉覚えてるか」
「はい、確か『サムライジャパン』でしたよね」
「そう、あのサムライジャパンという言葉には、実は、『我々は試合に勝って世界一になるという、目の前の分かりやすい目標だけのために戦うのではない』という意味が含まれているんだ」
これがビジョンとどう関係するのだろうかと田所は興味をもち、
「世界一になるというのは、確かに目標ですね」
と反応した。
田所はこのときサムライジャパンの持つ意味について考えてみた。「潔い」「強い」「すきがない」「立派」「弱音をはかない」いろんな言葉が頭に浮かんではみたが、なぜこれがビジョンと関係するかは、まだつかめなかった。
杉浦が続ける。
「当時の野球日本代表は、審判に文句を言うチームというレッテルを貼られていたんだが、そういう行為は一切やめよう、まずこれがサムライと名乗る上での約束だった。それと試合に出る選手も出ない選手も腐ることなく一緒に戦おう、チームのためなら自分を犠牲にできる潔さを持とう、我々は全野球選手のトップにいる選ばれた戦士としての誇りをもち、正々堂々と戦い、そして勝って、日本中の野球少年に野球のすばらしさ、本当に強いチームの理想の姿を示そうじゃないか、それが我々がWBCで野球をやる意義だ、そんなことを選手に伝えたそうなんだ」
「それがサムライジャパンになる、というビジョンですか?」
「そう、その通り。世界一になるという目標だけでなく、サムライジャパンとしての野球をするという意味としてのビジョンが、全選手の心をひとつにしたんだ」
田所は、ビジョンのすべてを理解できたわけではないが、チーム活動には重要なものだという感覚ははじめて持てた。
「杉浦さん、ひとつ質問ですが、ビジョンは自分みたいな何の実績もない人間が作って良いのでしょうか?」
田所は杉浦の顔をのぞきこんで意見を待った。
「いい質問だな。メンバーに受け入れられることは大前提だが、組織を率いる責任者として、まず君が示すのが筋だと思うよ」
杉浦は明確に答え、そして続けた。
「もちろんはじめから完璧なビジョンなんてできない。関係者に批判を受けて精錬されていく。でも、まずはマネジャーがビジョンを打ち出さないことには、メンバーは反対も賛成もできない」
「分かりました。完璧を求めず、まずは当たって砕けろの精神で、メンバーに私のビジョンをぶつけてみます」
プライスウォーターハウスクーパースHRS ディレクター。金沢工業大学大学院 客員教授(組織人事マネジメント)。東京都立大学(現・首都大学東京)経済学部卒業後から一貫して、組織・人事戦略に関わるコンサルティングに従事。2000年までは産業能率大学において人材開発コンサルティング、マネジメント研修プログラムの開発、講師を担当。2001年からプライスウォーターハウスクーパースHRSにて人事制度全般のプロジェクトマネジメントの豊富な経験を積む。著書は『ミッション』(プレジデント社)、『新任マネジャーの行動学』(共著・日本経団連出版)など多数。
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