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間もなく合併して新会社に ウィルコムとイー・モバイルの足跡を振り返る佐野正弘のスマホビジネス文化論(1/3 ページ)

» 2014年05月20日 11時00分 公開
[佐野正弘ITmedia]

 ソフトバンクグループのイー・アクセス(イー・モバイル)とウィルコムは、6月1日に合併して新会社になり、後日「ワイモバイル」という新社名で新たな道を歩むことになった。

 当初は同じくソフトバンク傘下のヤフーが新会社を買収し、子会社化する予定だったが、ヤフーは5月19日になってその方針をひるがえした。ただヤフーが独自性を打ち出したスマートフォン向けサービスを提供し、ワイモバイルがその通信インフラを支える図式に変更はないようだ。

 今回は、イー・アクセスとウィルコムについて、どのような足跡をたどってきた会社なのか改めて振り返ってみたい。

ヤフーの子会社化を土壇場で回避

 2013年12月、イー・アクセスによるウィルコムの吸収合併が発表された。さらにその約4カ月後の3月27日、ヤフーがイー・アクセスとウィルコムが合併する新会社を買収し、新たに「ワイモバイル」(ブランド名はY! mobile)として携帯電話事業を展開すると表明した。

photo イー・アクセスとウィルコムの合併会社「ワイモバイル」を買収すると発表したヤフーの宮坂学社長(3月27日)。この発表は5月19日に撤回された

 結局ワイモバイルはヤフーではなくソフトバンク傘下の1キャリアとして存続することになったが、インターネット事業を主体としたヤフーが携帯電話事業に参入しようとしたことに大きな驚きが広がったのは事実だ。ヤフーは既存のYahoo!サービスと連携したサービスをワイモバイルのインフラ上で提供するとしており、今後もその動向から目を離せないだろう。

 国内唯一のPHS事業者となったウィルコムと、イー・アクセスの携帯電話事業であるイー・モバイル。ともにかつては独立系の通信事業者として競い合ったライバル同士であったが、どのような足跡をたどってソフトバンク傘下の企業になったのだろうか。

現KDDI傘下で独自のポジションを確立したDDIポケット

 まずは、ウィルコムの歴史を振り返ってみよう。ウィルコムは元々「DDIポケット」という企業であり、KDDIの前身の1つであるDDI(第二電電)がPHS事業に参入するための企画会社として、1994年に設立された。

 同時期には、同じくPHS事業に参入するためNTT系のNTTパーソナルや、電力系企業を中心に設立したアステルグループ(2006年までに全ての事業者が終了)も設立され、PHSによる通信事業を展開していた。

 DDIポケットらがサービスを開始した当時は、携帯電話の料金が現在よりも高額であり、PHSはそれよりも料金が安価であったことから人気を博すこととなった。またDDIポケットは1996年にショートメールサービスの「Pメール」を開始したが、その際に絵文字を多く取り入れたことが若者に受け入れられ、ポケットベルの代わりとなるデバイスとして、若年層を主体として人気を高めていった。

 だが一方で、PHSは携帯電話と比べ電波の出力が弱い上、当時はエリア整備が途上の段階でもあったことから接続できるエリアがまだ限られていた。そのことが急増するユーザーの不満を高め、“安かろう悪かろう”のイメージが定着してしまったのである。

 加えて携帯電話側も、PHSとほぼ同時期にサービスを開始した日本テレコム系のデジタルホン(後のソフトバンクモバイル)や日産系のツーカー(2005年にKDDIに吸収)などの新規参入事業者が増えて競争が激化。料金の値下げが進んでいったことから、PHSは低価格というアドバンテージを急速に失うことになった。

 この時期(1998年)はNTTパーソナルがNTTドコモに事業を譲渡するなど、PHS事業に大きな転機が訪れた頃だ。そこでDDIポケットは、ハンドオーバーを改善するなどして、PHSの繋がりにくさを大幅に改善した「H"」(エッジ)シリーズの提供を1999年に開始、さらに当時としては高速な64kbpsでのデータ通信が安価にできることを売りとしてデータ通信の分野を積極的に開拓。携帯電話事業者の猛攻をしのぎつつ、独自のポジションを獲得していったのである。

photo 筆者の手元にあった、マルチメディア要素を高めた「feel H"」シリーズのPHS「KX-HS100」(九州松下電器(現パナソニックシステムネットワークス)製)

 「データ通信に強いDDIポケット」のイメージを確立したのは、2001年に開始した「AirH"」(ウィルコムに社名変更後は「AIR-EDGE」に変更)であろう。これは従来の(速度保証はあるが回線を占有する)回線交換方式に加え、最大32kbpsのパケット通信による定額データ通信を実現するものだ。

 当初はデータ通信専用のサービスであったが、2003年には日本で初めて、パケット定額制が利用できる音声端末「AirH" Phone」が登場。当時、携帯電話上でのインターネット接続料金は従量制が基本であったため、使いすぎで高額のパケット代を請求される“パケ死”という言葉が流行していた。それだけに、AirH" Phoneの登場は非常に画期的なことだったといえる。

photo 京セラ製の「AH-K3001V」。ブラウザにOperaを採用し、定額でパソコンのWebサイトが閲覧できることから、ファンから「京ぽん」という相性が付けられるほどの人気に

 最初のAirH" Phone(AH-J3001V、AH-J3002V。日本無線製)は携帯電話向けのWebサイトの閲覧にしか対応していなかったが、翌2004年に発売された京セラ製の「AH-K3001V」は、Webブラウザに「Opera」を採用。PC用のWebサイトをPHS上で、しかもパケット代を気にせず閲覧できることから、PC利用者を中心に高い人気を集めて品薄となっただけでなく、ファンが「京ぽん」という愛称を付けたり、多くの関連書籍が発売されたりするなど、PHSとしては異例のヒットをもたらしたのである。

KDDIの方針を受けウィルコムとして独立、破綻のきっかけは?

 他社がPHS事業を縮小・休止する中、独自のポジションを確立して生き残り続けたDDIポケット。だが親会社となるDDIが、2000年にKDD、IDOと統合してKDDIとなったことで、大きな変化にみまわれることとなる。KDDIは現在にも続く「au」と、日産から譲渡された「ツーカー」、そしてDDIポケットと3つのモバイル通信事業を抱えていたため、激化する競争を勝ち抜く上で事業の選択と集中が求められていたのだ。

 KDDIは、auをモバイル通信の主軸に据えることを決断。DDIポケットはツーカーとともにノンコア事業として位置付けられたのだが、それを良しとしない経営陣と、PHSの可能性に目をつけた米国の投資ファンド、カーライルによって、2005年に「ウィルコム」として独立を果たすこととなる。

 ウィルコムは独立した直後から、PHSの独自性を生かしてユニークなサービスを次々と提供していくこととなる。同年5月にはウィルコム同士の音声通話が定額になる「ウィルコム定額プラン」を開始。これがコミュニケーション需要の高い若年層にヒットし、通話にフォーカスしたポップなデザインの「HONEY BEE」(京セラ製)など、ヒット端末をも生み出す土壌となった。

photo 音声定額を実現した「ウィルコム定額プラン」が若年層にヒット。「コム友」などの言葉を生み出し若者文化に影響を与えたほか、ヒットモデル「HONEY BEE」も生み出した

 さらに同年7月には、小型のモジュールにPHSの通信機能を搭載し、さまざまなデバイスに差し替えて利用できる「W-SIM」を発表。11月には実際に商品化され、12月にはW-SIMに対応した、国内初のWindows Mobile搭載スマートフォン「W-ZERO3 WS003SH」(シャープ製)を発売している。

 当時日本の携帯電話キャリアは、インターネット接続ができるフィーチャーフォンが高い人気を博していたのに加え、ネットワークやサポートにかかる負担が大きいことから、スマートフォンの国内導入には否定的であった。そのため、W-ZERO3は“日本でスマートフォンを使いたい”という人達の関心を一手に集め、発売当初から行列ができ、シリーズ化するなど大ヒットモデルとなったのである。

photophoto PHSの機能を集約した超小型通信モジュール「W-SIM」と、それを挿入して利用するネットインデックス(現ネクス)製のデータ通信端末「DD WS002IN」(写真=左)。国内初のWindows Mobile搭載スマートフォン「W-ZERO3」。発売時は国内のスマートフォン発売を待ち望んだ人達が行列を作るなど、大きなヒットとなった(写真=右)

 だがそうした好調の一方で、ウィルコムは2007年頃になるとスマートフォンや音声通話定額で携帯電話キャリアからの猛追を受けるようになった。同時期には当時の新規参入事業者であるイー・モバイルが、PHSより高速な3Gによる定額データ通信サービスを開始。サービス面で他社に追いつかれる一方、古い通信方式となったPHSのデメリットが目立つようになり、徐々に競争環境が厳しくなっていこととなる。

 そこでウィルコムは、広帯域移動無線アクセスシステム(BWA)用となる2.5GHz帯の獲得に名乗りを上げ、2007年にはUQコミュニケーションズとともにこの周波数帯域を獲得。当時PHSが広く使われていた中国などへの展開をにらみ、「次世代PHS」ことXGP方式でのサービス展開をするべくインフラ整備を進めることとなった。

 だが、このXGPが同社の破綻を招く大きな要因となったのである。というのもこのころは、いわゆる「リーマン・ショック」による世界的な金融不安が起きた時期でもある。ウィルコムには大規模な投資が必要だったが、リーマン・ショックの影響を受けたカーライルからの資金調達が困難となり、資金繰りの目途が立たなくなってしまったのだ。

 そこで同社は2009年9月、私的整理の一種である「事業再生ADR」を申請して経営再建を目指そうとしたものの、このことが逆に信用不安を招いて大量の顧客流出が発生。2010年2月には会社更生法を申請し、経営破たんに至ってしまった。

photo ウィルコムは2009年4月より、XGPのサービスを限定的に提供していた。だが発表時点で全国展開のスケジュールが公表されないなど、苦しい状況にあることも印象付けていた

 その後はソフトバンクが再建スポンサーに名乗りを上げ、経営の重しとなっていたXGP事業の譲渡を受けてWireless City Plannningに移管。その後PHS事業の支援にも乗り出し、ソフトバンク流のマーケティング手法や「だれとでも定額」の提供などで顧客基盤を回復。2013年7月に更生手続きを前倒しで終了させたことで正式にソフトバンクの子会社となり、同じくソフトバンクに買収されたイー・アクセスとの合併へとつながっていくのである。

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