いまから37年前の1981年に発売された「XT」でもない「AT」でもない、初代の「IBM PC」がなぜか日本で発見された。その「開封の儀」がIBM PC発売日とされる8月12日に東京で執り行われた(追記:主宰は元日本IBM社員でPC市場開発とDOS/Vの企画者に携わっていた竹村譲氏と角川アスキー総合研究所主席研究員の遠藤諭氏。2018年8月16日15時27分追記)
この“儀式”にあわせて、IBMでThinkPadなどのPC事業に関わった「元」社員やDOS/Vを生み出した技術者、そして、IBMとともにIBM PC互換機を日本に広めようとした競合メーカー社員などが集まり、当時の「秘話」を初めて口にした。
この開封の儀(という名のイベント)の主役は、もちろん未開封状態で30年以上保存されていた初代IBM PCの開封と“火入れ”だったが、その場に集まった「元」IBM社員や「元」競合メーカー社員、そして、DOS/Vを生み出した技術者たちが口にしたエピソードの数々からは、「ダブルスパイ」が暗躍するし烈な状況で、知略謀略を尽くしてThinkPadが誕生した経緯や、IBM PC互換機で日本語を表示する規格を策定する現場の状況、そして、IBMの競合他社、特に東芝の「DynaBook SS」の苦闘など、まさに「いまだから口にできる」内容だった。
この記事では、この「マジ、シャレにならないっす」という当時の状況を中心に紹介する。
バンドワゴン・プロデュース代表取締役社長の加藤徳義氏は、元IBM Mobile Computing GM補佐を務めていた。大和研究所が中心となってノートPC事業(これがThinkPadにつながっていく)を立ち上げようとしたとき、大和研究所と米IBMの連絡役として1991年に米国に渡っていた。
一方の米IBMはPC事業を「やればやるほど損」と評価していて、できることならPC事業を早々に売却したいと考えていたという。そうした背景からノートPCに対しては最初から「日本にやらせるつもりはなかった」と加藤氏はいう。
そのような事情を知る日本IBMからは「ノートPC事業立ち上げを快く思わない米国IBMの内情を探り、じゃまする動きがあれば伝えよ」という諜報員としての任務も与えられていた。
しかし、米国に到着した加藤氏は米国IBMから「日本IBMの動きを逐次報告せよ」と命ぜられる。米国IBMが日本人の加藤氏にスパイになれと指示した理由には「あなたはPS55や5550(の事業に関わっていないので)に対する愛情はないから、PC事業部をなくすことに抵抗がないだろう」という思惑があった。
そのような状況でどのようにしてノートPC事業を立ち上げることができたのか。加藤氏は「それまでのIBMはいけてなかった。やぼったかった。だから新しいブランドを立ち上げる必要があった」と述べる。
そのブランディングで参考にしたのが、製品型名で「3桁の数字」を採用したBMWではなく、「ジープ」だったという。「IBMがノートPC事業をそのうち売却することは見えていた。そのため、“どの会社に売られてもブランドが生き残る”ジープのようなブランドを作ろうとした」と加藤氏は明かす。「なので、最初につくったThinkPadのロゴってIBMの文字が入っていなかったんです」(加藤氏)
しかし、このIBMの文字なしロゴは米国IBMから反対される。そこで加藤氏は米国IBMにPC事業部売却の可能性を問いただした。「すると彼らは売らない、というんですね。で、ずっと売らないのかと聞くと、すぐには売らないという。いつまで売らないんだと聞くと、10年は売らないと。それで、その言葉を文章にしてもらって1992年から(ThinkPadの事業が)スタートした」(加藤氏)
その後、“ほぼ”10年が経過した2005年にIBMはPC事業をレノボに売却するが、当時、PC事業の売却を予想して既にIBMを辞めていた加藤氏も「まさか中国の企業に売るとは」と驚いたそうだ。
ThinkPadブランドを立ち上げようとしていた当時、チームは加藤氏を含めて12人いたが、その全員が「PCというビジネスとIBMのビジネスモデルは矛盾していた」と考えており、いつでもやめる覚悟を持っていたという。IBM自身が大規模なリストラを進めていた時代で、コストがかかる提案ばかりしてくる日本の大和研究所は「憎悪の対象でしかなかった」という状況だったと加藤氏は振り返る。
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