ビクトリノックスが守り続けるもの――「スイスツール」矢野渉の「金属魂」Vol.4

» 2009年07月30日 15時45分 公開
[矢野渉(文と撮影),ITmedia]
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大の金属好きが苦手にしていたものとは?

 僕は筋金入りの金属好きだが、たった1つだけ苦手なものがある。“ナイフ”だ。

 包丁やカッターは何ともないのだが、ナイフには軽い恐怖を感じる。包丁は「キッチンナイフ」だからナイフの1種であるのに、僕の感覚ではこの2つは全く違うジャンルの金属ということになる。

 使用目的がはっきりしていて、平和的に使われる刃物はいいのだ。「日常の道具」として認識することができる。

 しかし誤解を恐れずにいうと、僕にとってのナイフのイメージは、狩猟、犯罪に使われる凶器、あるいは軍隊、戦争といった何かを傷つけるための道具だ。農耕民族にはこの血なまぐさい部分がなじまない。本能的に恐れを感じてしまうのだ。

 ビクトリノックス。十年以上前のことだが、僕はアウトドアショップのショウウインドーの前で、何度も逡巡(しゅんじゅん)を繰り返していた。この、老舗のスイスアーミーナイフは、金属好きならとりあえず手に入れるべき存在だった。作りのよさは承知済みだ。顔がうつるほど磨き上げられたステンレス素材はうっとりするほど美しい。しかし、それは“ナイフ”なのだった。

 ビクトリノックスのスイスアーミーナイフは、二つ折りできるジャックナイフの柄の部分にさまざまな機能を仕込んである。モデルによって機能の数が違うが、機能が多くなれば柄の厚みが増していくだけのことで、やはりカタチは“ナイフ”なのである。これに「アーミー」が加われば、これは立派な武器だ。敵を傷つけるためのものだ。

 結局、この時僕はビクトリノックスの購入をあきらめた。


あこがれのビクトリノックス製品を手にして思うこと

 それでも僕は、なんとかあこがれのビクトリノックスを手に入れる方法はないものかとカタログなどを調べた。そしてこの「スイスツール」を見つけたのだ。

 一般にマルチツールと呼ばれるものは、2つの派閥に分けられる。ひとつはビクトリノックスを頂点とする「多機能ポケットナイフ」。そしてもう1つがプライヤー型のマルチツールである。先端のノーズ部分をハンドルの中に収納する方法が、各社の設計者の腕の見せどころだったりする。

 面白いのは、このプライヤー型を作っているメーカーは、もともとナイフメーカーであるにもかかわらず「多機能ポケットナイフ」は製造していないことだ。老舗には勝てないという判断なのか、きれいにすみ分けをしている。

 だから僕はビクトリノックスもプライヤー型は作っていないと勝手に思い込んでいた。しかし、たった1種類だけ(現在はもう少し小型の「スピリッツ」と2種類)発売されていたのがこのスイスツールだった。

 僕は即座にこれを手に入れた。なぜなら、スイスツールはビクトリノックスでありながら「ナイフ」ではなかったからだ。ハンドルの中にかなり大型のナイフが仕込まれているが、それはあくまで「そのほかの機能」であって、これはプライヤーなのである。

 手にとってみると、こいつは想像以上にシビれる金属だった。まさに工芸品と呼ぶのがしっくりとくる。設計者のメッセージが各部分から聴こえてくるようだ。すべてが既存の、主にアメリカのメーカーが作り上げたマルチツールの概念に対するアンチテーゼともとれる。

 まずその重さだ。270グラムもある。パッケージに付属するベルト通しのついたケースに入れると300グラムを優に超え、皮ベルトではその重みでベルトが伸びてしまうほどだ。アメリカのメーカーなら、まず使用する金属板を極限まで薄くし、それでも足りなければパンチング処理をして重量を減らしていくだろう。「実用性」が善だという考え方だ。

 しかしビクトリノックスはせっかく磨き上げたステンレススチールの美しさをなくすぐらいなら、あえて「重さ」を選ぶのだ。この質感の表面に掘り込まれたメジャーの目盛り(表はインチ、裏はセンチになっている)のなんと美しいことか。

 ノーズの収納方法は、ハンドルを両側から回転させて包み込むオーソドックスな方式だ。途中、ちょうど90度の角度で正確にストッパーが効く。両ハンドルのメジャーをつなげて使うためだ。がたつきが皆無なので、目盛りの値は正確無比。ビクトリノックスのさり気ないプライドを感じる瞬間でもある。

 各ツールは回転しながら柄の内部から姿を現し、柄と一直線の状態でカチリと止まる。スムーズに、しかし確実に。ある程度の力を必要とするが、それが逆に心地いい。

 この時に、無意識に感じる充足感と安心感は、裏側にある板バネによるものだ。ビクトリノックスの本領はここに集約されていると言っていい。長い歴史をかけて彼らはこの感触を創(つく)り上げたのだろう。

 ブレードの切れ味などは、二の次だったのだ。

 僕は、このスイスツールを一度も「道具」として使ったことがない。実用に優れたマルチツールは別に持っているし、これだけ大型になるとナイフ部分が銃刀法(銃砲刀剣類所持等取締法)に触れるので持ち歩くことが事実上不可能になってしまった。

 まあいい、それは金属好きには好都合なことなのかもしれない。これからもひとり静かにビクトリノックスを味わっていくためには。

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