東芝は、12月18日から2011年1月29日にかけて、東芝ノートPC登場25周年を記念した特別展示企画「−東芝ノートPC25周年−“できない”から“できる”へ変わった〜未来へ進化し続ける東芝ノートPC〜」を東芝科学館で開催する。その開幕記念式典で、東芝取締役会長の西田厚聰氏による特別講演会「東芝PC事業の創造〜新事業の創業・育成〜」が行われた。
西田氏は、1984年に東芝ヨーロッパ上級副社長に就任して欧州市場における同社ノートPC事業を立ち上げ、その成功を受けて1992年には、東芝アメリカ情報システム社の社長として北米市場における東芝製ノートPCの事業を成功させ、1995年から東芝本社にて日本市場におけるPC事業を立て直すなど、東芝のPC事業で主要な役割を果たしてきた一人だ。
特別講演では、東芝の社長を経て現在会長職にある財界人として、「日本は民間の研究開発投資が全体の85%とほかの国に比べて非常に高いレベルにある。しかし、これからはリスクの高い基礎研究は国が支援し、その成果を基にして民間が革新的な製品を開発していくのが望ましい」と、技術発展における政府支援の必要性を訴えているが、ここでは、PCユーザーとして興味深い、東芝のノートPC事業が「全世界で実績ゼロ」の状態から「世界でトップシェアを確保する」までの道のりに関する内容を紹介しよう。
東芝のクライアント向けPC事業は、デスクトップPCを中心に米国などで展開していたが、「高い画像性能を持たせるため、当時主流だったIBMとの完全互換が取れなかったため」(西田氏)事業は不調で、ほどなく撤退することになってしまった。
「米国市場はホームラン(ヒット商品)を2本打てば再参入は可能」考えた西田氏は、「日本が得意とする軽薄短小を生かすため、液晶ディスプレイを搭載したノートPC」で再挑戦を考え、そのコンセプトに基づいて開発したT1100を、「実績ゼロ」の欧州市場に投入した。
米国なく、欧州市場から参入した理由を西田氏は「市場特性が各国で異なるため、国ごとにマーケティングが違ってくる。米国のようにAll or Nothingではないので、リスクが分散できる」と説明している。
T1100は、「実績ゼロ」の欧州市場で成功を収めるが、その理由の1つとして西田氏は、ソフトウェアベンダーに対する働きかけを紹介した。当時のPCはデータストレージとして5インチFDが主流だった。アプリケーションの流通も5インチFDであったため、3.5インチFDDを搭載するT1100は、「使えるアプリケーションがない」状況にあった。そのため、西田氏は自ら主要なソフトウェアベンダーを訪れて、3.5インチFD版を開発してくれるように要請したという。
欧州市場で東芝ノートPCをトップシェアにした西田氏は、米国市場の再参入に挑む。このとき主役となったのが、後に「キング オブ ラップトップ」の称号とともにユーザーから高く評価された「T3100」(日本でJ3100)だ。69万8000円という価格ながら、オレンジに輝くプラズマディスプレイの描画速度の速さなどが高く評価され、このT3100シリーズをきっかけに東芝のノートPCはその後7年間にわたってノートPCシェアトップを確保し続けることになる。
しかし、西田氏はこの7年間のシェアトップは東芝に「ゆるみとおごり」をもたらしたという。その結果、コンパックの登場によるコスト競争で遅れをとり、東芝はトップシェアの座を失う。このトップシェアを奪回するために、東芝はT4400SXCを開発した。CPUにデスクトップPCで採用されていたi486SX(25MHz)を「インテルの予想を超えた早い段階で」(西田氏)ノートPCに搭載し、液晶ディスプレイには8.4型のTFTカラー液晶ディスプレイを採用するなど、デスクトップPC相当の性能をノートPCに実装したもので、69万円という価格にもかかわらずトップシェアの奪回を果たした。
このときも、性能だけど高額なノートPCを企業に導入してもらうために、西田氏自身が営業に同行し、当時の企業向けPCが3年ごとにリプレースするのが通常であったことから、「3年先の性能を先取りしたノートPCを購入すべき。いま安いノートPCを購入して翌年また購入しなければならなくなったら、購入担当者のあなたの責任は重大だ」と説得したという。
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