現代美術における最も革新的な画家はiPadで描き続ける86歳 ホックニーがiPad絵画に魅せられる理由(2/3 ページ)

» 2023年09月22日 12時00分 公開
[林信行ITmedia]

ホックニー氏がiPadで描き続けるワケ

 ホックニー氏のデジタル制作は、iPadが初めてではない。実は1990年代に長く最速Macとして君臨したMacintosh IIfx上で、Time Artsが開発したワコム製タブレットに初めて対応した描画ソフト「OASIS」で絵を描き始めたという。

 ただし、当時は描いた作品をホックニー氏が満足する品質で紙に出力する方法がなく、作品制作に採用され始めたのはもう少し後のようだ。

 その後、ホックニー氏はiPhoneを入手し2009年にはiPhone上でSteve Sprangというプログラマーが開発した「Brushes」というアプリで絵を描き始める。今回の展覧会では、3つのディスプレイで展示されている《「窓からの眺め」より》の右端のディスプレイの作品だけ画面のアスペクト比が異なっているが、これはiPhoneで描いていた時代の作品だからだ。

デイヴィッド・ホックニー展 東京都現代美術館 iPad ワークショップ ホックニー氏が2010年から1年間、ほぼ毎日のように窓からの眺めをiPhoneおよびiPadの「Brushes」というアプリで描いてきた作品《「窓からの眺め」より》(2010年〜11年、作家蔵 ©David Hockney)。今回の展覧会では、ディスプレイで展示されている。他2点と画角が異なる一番右側のディスプレイに表示されている作品は、iPhoneで描いていた頃の作品だ(筆者が許可を得て撮影)

 iPhoneで絵を描き始めたホックニー氏が、もう少し画面の大きいiPhoneが欲しいと切望していたところ、何と翌2010年にはAppleからiPadが発表される。当時、ロサンゼルスに滞在していたホックニー氏は、これを2010年4月の発売と同時に入手して、まずは自然を描きたいとヨセミテ国立公園に赴いて制作をしたという。

 その後、日常的にiPadでの制作を始め、iPad作品が初めて大規模に披露されたのが2012年の60万人が訪れたロイヤル・アカデミーでの展覧会で、伝統的具象絵画でも知られる当時、既に70代の画家がiPadでの制作を始めたということでも大きな話題になったという。

 一体、iPadの何がそんなに良かったのか。

 東京都現代美術館学芸員の楠本愛氏いわく、「ホックニーはiPad絵画の4つの特徴に引かれた」という。

 1つ目は「バックライト」、つまり画面が発光していることだ。ホックニー氏の作品はその色彩美も大きな特徴となっているが、色とは詰まるところ目が感じる光であり、画面そのものが発光するiPadで絵を描くようになったことで、色に対しての感覚も変わったのだという。

 2つ目は「早く描ける」ことだ。今回の展覧会では油彩画、iPadで描かれ印刷された作品、映像作品と3つの手法で手法でイースト・ヨークシャーの春を描いた作品が展示されている。

 油絵作品《ウォーター近郊の大きな木々またはポスト写真時代の戸外制作》(2007年)は、横12mという大きな作品ということもあり、描くのに6週間ほどかかっている。ホックニー氏は日々刻々と移り変わっていく春の光を描くのが好きな作家だが、時間がかかると描いているうちに光がどんどん変わってしまう。これがiPadであれば絵の具を用意する手間もなく色を選ぶのも簡単だし、背景もすぐに描ける。ホックニー氏は2011年の春だけで、90枚ほどのiPadドローイングを描いたという(今回の展覧会では、そのうち12点を展示している)。

 早く描けると言う特徴は、1年間の間での季節の移ろいをとらえた「ノルマンディーの12か月」を描く際にも重宝したようだ。

 3つ目は「色選びが柔軟にできる」ことだ。油絵の制作は時間がかかってしまうが、一方の水彩画には薄い色から始めてだんだんと濃い色を塗るようにしていかないと、色が濁ってしまうという問題がある。

 iPadでは、そんなことを気にせずに好きな色を好きな順番で描くことができる。例えば、既に色が塗られた一番上に白で塗るというのは、iPadで絵を描いたからこその表現と楠本氏はいう。

 「iPadでは、どんな色でも自分の好きな色を下の色を気にせずに重ねていくことができる」(楠本氏)

 ホックニー氏がiPadを気に入っている4つ目の特徴が、ブラシを自由にカスタマイズできることだ。ホックニー氏はしばらくの間、iPad上でもBrushesアプリを愛用していたが、アップデートによって目当てのブラシを見つけにくくなったという。

 しばらく困っていたホックニー氏だが、技術アシスタントのジョナサン・ウィルキンソン氏氏がリーズ市にいる数学者と組んで、7〜8個のホックニー専用ブラシを備えたアップデートを行い、パーソナライズ版のBrushesを開発。この自分用のカスタムブラシがホックニー氏のお気に入りなのだという。

 例えば90mの木の小枝などをブラシ(スタンプのようなものを想像すると分かりやすい)として登録しておけば、1つ1つの小枝を繰り返し描かないでも、大きさや向きを変えながら簡単に描き足すことができる。

 AIの台頭もあり、2022年からデジタル技術を使ったアートの制作について、さまざまな議論が出始めているが、86歳のホックニー氏が、自分の描きたいことを表現するのに最適だからとiPadを軽やかに使いこなして描いている作品たちを見ると、(陽気な春をテーマにした作品が多いこともあるかもしれないが)楽観的で明るい気持ちが芽生えてくる。

デイヴィッド・ホックニー展 東京都現代美術館 iPad ワークショップ ホックニー氏はVR(正確にはAR)にも挑戦している。《春の到来 ノルマンディー 2020年》(2020年、作家蔵 ©David Hockney)の一部の作品は、App Storeで配布されている「Hockney AR」というアプリを起動してカメラをかざすと雨がアニメーションをしたり、描いている途中の様子が再現されたりする(筆者が許可を得て撮影)
デイヴィッド・ホックニー展 東京都現代美術館 iPad ワークショップ App Storeで公開されている「Hockney AR」

 よく考えてみれば、水彩画や油絵もデジタルではないが、キャンバスに色を定着させるために生まれてきた技術という点ではiPadと同じだ。アートの歴史は、表現者が常に最良の方法で意図をよりうまく表現すべく試行錯誤を重ねてきた歴史でもある。

 ホックニー氏は、その目的のために常に柔軟に進化を続けてきたアーティストであり、その名声を通してまだ認知されていない新しい表現の道具を、立派なアート制作の道具として世界に認めさせる役割も担っているのかもしれない。

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