愚直である限りは感動のイルカ(2/2 ページ)

» 2009年08月14日 12時00分 公開
[森川滋之,Business Media 誠]
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 「これで、今月3人目だ……」。斉藤清美の部屋で上着を脱ぎながら、浩はつぶやいた。

 組織が崩壊するときはいつもワンパターンだ。最初に業績が落ちる。そして、人が少しずつ離れていく。

 「いいじゃない。押し込み営業してた人ばかりなんでしょ?」。つまみを作りながら清美が返した。会社の連中には内緒のつきあいだ。

 「それだって、オレに怒鳴られるのが嫌でやってたことだ。そう考えると不憫(ふびん)だよ」

 「向いてなかっただけよ。自分を責めることはないわ」

 そう考えられる人なら楽だろうに。清美はそう思いながらも、ほかに励ます言葉が見つからなかった。

 「オレ、もうだめなのかなあ……」。ビールをあおりながら浩はまったく元気の感じられない声で言った。

 「そんなにしんどいなら、辞めちゃえば」。慰めは逆効果だと清美は思った。

 「そういうわけにも行かないし……」

 「だったら、元気出してやりなよ」

 「ああ。それより清美、料理の天才だな」

 「何それ? 簡単なおつまみばっかりじゃない」

 「考えたら、こっち来てから、手料理なんて作ってくれたの、清美が初めてなんだ」

 結婚しよう、という言葉を浩は飲み込んだ。今の自分にそんな資格はない。結婚したい気持ちに偽りはない。なにしろ清美の部屋にいるときだけが、浩には安息の時間だったからだ。

 不景気なのは、誰の目にも明らかになっていた。銀座での豪遊はピタッとやめた。車も売り飛ばした。あれだけ買いまくっていたブランドもののスーツもしばらくは買っていない。まあ、もう30着も持っているのだから当面新しく買う必要もないのだが。

 チームの成績は目に見えて落ちた。部下はすでに5人辞めている。一時期17人までに膨らんだチームは、現在12名になった。ほかの連中もいつ辞めると言い出すか分からない。

 まっさらなチームなら、もしかしたら売り上げを作れるかもしれない。しかし、一度メンバーがリーダーに不信感を持ってしまったら、尋常なやり方では立て直しは不可能だ。

 最近は、右腕だと思っていた山口始でさえ、あまり口をきいてくれない。報告もおざなりだ。浩には、これからどうしていいのかがまったく分からなくなっていた。部下の不信感の中で孤独さだけを毎日かみしめていた。

 その分、よけいに清美におぼれている。それは自分でも分かっている。清美も仕方のない男だと思っているに違いない。そう思うといたたまれないが、それを逆転する方法が見当たらない。

 清美は、あいつは愚直だから見どころがあると啓太が言っていたのを思い出していた。浩は信頼できる。本当にまっすぐな人間だと思う。浩の支えになりたい。でも、それで本当にいいのだろうか。浩をダメにしているのはもしかしたら自分なのではないだろうか。

 いつの間にか浩が横に来て、自分を抱き寄せている。変な考えは吹き払おう。清美は浩に身を任せた。


 翌日。浩は落ち着かない様子で、清美の席にやってきた。

 「やられた」。低い声で浩がつぶやいた。

 「どうしたの?」

 「しっ。小声で」

 清美はうなずいた。

 「取り込み詐欺だ。3000万円ほどやられた」

 2カ月ほど前に、浩自体が納入した会社だった。この不景気に大きな契約が取れた、まだオレの営業力も落ちてないなと喜んでいた取引だった。

 「与信チェックが甘かった。大きな取引だったので、相手の言うままに納入してしまった」

 入金がないので、電話をしたら誰も出ない。慌てて納入先に出向いたら、すでにもぬけの空だった。浩が納入したOA機器も跡形もなかった。とっくに売り飛ばされたのだろう。

 「気の毒にな」――。関係者と間違われて債権者とやり取りする羽目になった。ようやく自分も債権者だと分かってもらえたあとに一言そう言われた。

 どちらにしろ誤魔化しようもない。数百万円ぐらいなら自分のポケットマネーで誤魔化せたかもしれないが、3000万円はさすがに無理だ。清美ならいいアイデアがあるかと思ったが、自分の甘えに自己嫌悪するだけだった。

 会社の措置は、半年間の減俸だった。浩は、自分はどん底に落ちたと思った。しかし、本当のどん底はこれからだった。

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著者紹介 森川滋之(もりかわ・しげゆき)

 ITブレークスルー代表取締役。1987年から2004年まで、大手システムインテグレーターにてSE、SEマネージャーを経験。20以上のプロジェクトのプロジェクトリーダー、マネージャーを歴任。最後の1年半は営業企画部でマーケティングや社内SFAの導入を経験。2004年転職し、PMツールの専門会社で営業を経験。2005年独立し、複数のユーザー企業でのITコンサルタントを歴任する。

 奇跡の無名人シリーズ「震えるひざを押さえつけ」「大口兄弟の伝説」の主人公のモデルである吉見範一氏と知り合ってからは、「多くの会社に虐げられている営業マンを救いたい」という彼のミッションに共鳴し、彼のセミナーのプロデュースも手がけるようになる。

 現在は、セミナーと執筆を主な仕事とし、すべてのビジネスパーソンが肩肘張らずに生きていける精神的に幸福な世の中の実現に貢献することを目指している。


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