チャンスの生かし方オルタナティブな生き方 高橋誠さん(2/2 ページ)

» 2011年11月08日 12時00分 公開
[聞き手:谷川耕一、鈴木麻紀,ITmedia]
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偶然のチャンスを捕まえる

 編集の仕事を楽しんできた高橋さんだったが、約10年勤めあげたころ退職を決意する。きっかけの1つは、副編集長になったことだった。このまま行けば、やがては編集長になる。現場が好きな彼は、管理職になりたくなかったのだ。

 もう1つがCoCoの解散だった。「仕事的にはこれで一区切りしたかな、という気持ちがありました」。アイドルの仕事は楽しいけれど、このままアイドルだけを続けてていいのかという漠とした不安もあった。もともと1つの会社にだけたよった働き方にも疑問を持っていた。

 また、提案していた新しい企画が採用されないというジレンマもあった。いろいろな要素が重なった結果、会社を離れてもっと面白いことをやりたいと考えたのだ。とはいえ、すぐに新しい仕事ができるわけもなく、当初はフリーランスで雑誌のライター仕事をこなしていた。そうこうしているうちにホームページの企画やインターネットテレビのサイト運営の手伝いなどの話が舞い込むようになり、仕事の幅が少しずつ広がっていった。

 その後、本人いわく「なんとなく」アメリカに行こうと考えた。このあたりから、高橋さん流「計画的偶発性理論」ともいえる偶然をうまく自分の価値にしていくキャリアが加速していく。「行き当たりばったり的なところは昔からありました。例えばクイズ研究会は、たまたま自分しかやる人がいなかったから。学研に入ったのも、偶然といえば偶然です」。強い意志のもと、がむしゃらに突き進むというよりは、目の前に偶然やってきたチャンスを物にして、自分のキャリアのプラスとなるようにしてきたのだ。

 そして39歳になった2000年、「とにかく渡米」してしまう。ロサンゼルスのコミュニティカレッジに1年通えばその後1年間現地で就労できるプログラムがあり、それを利用することにしたというが、当時ロスに知り合いなどひとりもいなかった。

「Japan Film Festival」で実行委員長を務めたとき。偶然が新しい可能性につながった。

 ではどうしたのかというと、さまざまな会合などに積極的に顔を出し、新たな出会いの機会を作っていった。「ロスには日本人がたくさんいます。米国で何かやろうと思っている日本人は、とにかくユニークで面白い人が多い。そういった人たちのことを本にして出版したらどうかと考えました」。そして、勤めていた知人の会社を辞めて出版プロデュース業を始めたのだ。「米国に行く前は、こういう形で仕事をするなんて考えもしていませんでした」。

 偶然からの発想が出版プロデュースというビジネスになり始めたころ、また偶然の出会いが起こる。ロスに移り住んでいた映画監督のすずきじゅんいち氏と出会うのだ。最初は書籍出版をアプローチしていたのだが、日本で撮影された映画の上映会をロスで行いたいというすずき監督の意向を聞き、ならば手伝いましょうということなり、気がつくと日本で撮影されたハートウォーミングな映画を米国の人たちに観てもらう「チャノマフィルムフェスティバル」を開催していた。

 これが成功し、結果的に米国の映画マーケットでビジネスをするための会社を映画祭の主催者仲間と一緒に興すまでになった。しばらくは、そこで活動をするが、自分は映画だけを扱いたいわけではなかったこともあり、その会社から結局は離れてしまう。

 その後はまた一転、メディア関係者の親睦会組織を作りたいとの要望を得て「日米メディア協会」を設立して代表となる。この間も「チャノマフィルムフェスティバル」の後継「Japan Film Festival」に関する仕事も続けていたというので、かなり忙しい米国での日々だったようだ。

失敗や挫折もすべて役に立つ

 人生ではさまざまなチャンスが目の前にやって来る。それを確実に捕まえ、だんだんと大きなビジネスへと発展させてきたのが、これまでの高橋さんの人生だった。その秘訣は「チャンスがやってきたときには、それについてあれこれ考えるだけでなく、実際にやれることをやってみること」だと言う。実際に動きだせば、やがてはそれが成功につながっていく。自分はもともと物事に対し積極的な方ではないが、必要だと思えばとにかく行動する。そう心がけている。

高橋誠さん。2011年2月にオルタナティブ・ブログ点をつなぐを書き始め、毎日更新している。

 米国での活動は、2008年に終わりを告げる。就労ビザの取得が難しくなってきたことと、現在取り組んでいる年表・自分史の創造コミュニティサイト「Histy(ヒスティ)」のアイデアを日本で実現したいと考えたからだ。2008年4月にHistyを運営する株式会社スマイルメディアを設立し、5月末から日本に拠点を移す。その後2009年1月にHistyサイトをオープンし、新たなサービスを開始する。Histyは、ソーシャルネットワークと自分史年表を結びつけたまったく新しいサービスだ。

 Histyは今までのように走りながら考えるのではなく、事前にサービス開設の準備をし、その上で本格的にビジネスとして取り組むことにした。「徐々に動きだすという感触をもって始めたが、現状は予想していたよりも苦戦している」と高橋さん。インターネットやソーシャルネットワークが普及し、いままでの自分史とは違う「新しい自分史の活用方法」があるのは分かっている。それをどのようにビジネスの域まで昇華させるのか。まずは自分史の活用方法を普及させるべきと考え、Histyの活動の中で知り合った人たちと「自分史活用推進協議会」を発足させ、自分史の普及活動に注力している。

 Histyを始めて、Webサービスの開発にも興味をもった。「これまでは、何かアイデアが浮かぶと、それをエンジニアに作ってもらわなければならなかった。アイデアがあっても、自分ではどうしていいか分からないという状況で、自分で開発ができればいいなあと考えていました」という高橋さんは、最近プログラムの勉強を始めた。「35歳プログラマー定年説というのがあるが、50歳からプログラマーを始めてどうなるか。それがいま面白い」。

 自分は好き勝手に生きてきた。なのでいま死んでもあまり悔やむことはない。「これまでの自分は運がよかった、失敗もいろいろしてきたけれど、面白いことがたくさんできた」。自分史のセミナーで必ず伝えているのが、「失敗や挫折は必ず何かの役に立っている。振り返ってみるとそういったことこそが、いまの自分にとって重要なものになっている」ということ。過去は変えられないが、過去の解釈は変えられる。その過去をきちんと見つめ直すきっかけとなるのが、自分史だ。過去に起こったことが、自分にとってどうプラスになるか。それを見つけるために、自分史を活用してほしい。

高橋誠氏 プロフィール

高橋誠

年表(自分史)創造コミュニティ「Histy」と、社会貢献型クイズサイト「eQuiz」を運営する株式会社スマイルメディア代表取締役。ネットや出版などの企画、編集、制作、運営、コンサルティングを手がけるメディアプロデューサー。

ニュートラル、かつ暖かな視点で綴るオルタナティブ・ブログ「点をつなぐ」は(特に)女性読者に人気がある。


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