連載
» 2010年10月22日 15時00分 UPDATE

矢野渉の「金属魂」Vol.12:ようこそ、大人の世界へ――「Ai Nikkor 45mm F2.8P」

PC USERのカメラマンとして活躍している矢野渉氏が、被写体への愛を120%語り尽くす連載「金属魂」。第12回は、レンズの名品を回顧する。

[矢野渉(文と撮影),ITmedia]

失われた濃密な時間に思いを寄せて

 レンズ設計に関するエピソードで、気に入っているものがある。

 1960年ぐらいまで(つまりコンピュータが普及する前)のレンズ設計は、ほとんどの時間を「光線追跡計算」というものに費やしていたのだそうだ。設計された光学系に入った光が、どのように屈折して結像するかを計算するもので、選抜された大勢の女性がその7ケタの演算にあたった。

 2人1組になり、お互いに検算を繰り返しながらの作業。それでも午前中に1本、休みを挟んで午後にもう1本の光軸計算をするのがやっとだったようだ。膨大な時間をかけてやっと出来上がったレンズデータを見ながら、設計者はさらに性能の向上を図るための手段を考える……。

 僕が好きなのは、この、昔のレンズ設計の現場を包みこむ濃密な時間の流れだ。膨大な時間と人手、そして経費が投入された、緊張感の漂う現場。設計者へのプレッシャーはいかばかりのものだったろうか。そしてそれは長期間に及ぶ。唯一、設計者が救われるのはレンズが完成をみたときだ。しかし、どんなに優秀なエンジニアでも、その歓喜の瞬間は生涯で数回しか訪れない。

 こうして作られた主にドイツのレンズたちは、みな名前を持っている。それは設計者の名前だったり愛称だったりするが、それほど出来上がったレンズに思い入れがあるということだ。

 ところが現代では、安価な光学設計ソフトが存在し、普通のPCでも半日で10億本以上の光線追跡計算が可能だ。レンズ設計も、「何群何枚のレンズ」ぐらいの「仕様書」を入力すれば、ソフトが光線追跡をしながらレンズの曲率や厚さを「最適化」してくれる。

 かかる時間やコストが10億分の1以下になった今、もはやレンズ設計は、基本的な知識さえあれば誰でも可能な分野になってしまった。残念なことに、そこには過去の設計現場にあったような情熱は感じられない。

 過去のやり方がすべて良いと言っているのではない。効率化は必要なことだし、レンズ自体の性能も現在のほうが数段上だろう。

 しかし、何かあまりにも「軽い」のだ。

 PCの画面上でものすごいスピードで「最適化」されていく設計図を眺めながら、自分は「モノづくり」をしていると自覚できるエンジニアはほんの一握りなのではないだろうか。そして、昔のように愛称を付けられるレンズは、今後は生まれないような気がする。

tm_1010n_01.jpg

粋な選択とは、こういうことか

 僕がこうした名称付きレンズの中で最も好きなのが、カール・ツァイスが製品化した単焦点レンズの「テッサー」(Tessar)だ。理由は、3群4枚というシンプルなレンズ構成にある。100年以上前に設計されたテッサーは、「少ないレンズ枚数で、十分な画像が得られる」という分かりやすい設計で、今も各レンズメーカーで作り続けられている。

 レンズの枚数が少ないということは、コストが安く済み、レンズの小型化につながる。そのため、このエコレンズは写真の歴史をも変えてしまった。高価だったカメラの価格を下げ、カメラの一般への普及を加速させたのである。テッサーはその薄さから「パンケーキレンズ」という新しい愛称でも呼ばれた。

 僕がテッサーレンズを初めて意識したのは、写真学校の夜間部にいたころだ。写真の歴史と理論を教えてくれた先生が、いつもテッサー付きの一眼レフを携帯していたのだ。

 授業は午後9時に終わる。僕らは毎日のように先生と連れ立って近くの居酒屋で酒を飲んだ。興が乗ればその後新宿へ流れて、先生のおごりで始発まで――というのがパターンだった。その間中、ただひたすら写真の話をしていた覚えがある。みんな若かった。

 先生は、「年を取るとだんだん写真を撮らなくなる。でもお前らは若くて下手くそなのだから、たくさん写真を撮らなくちゃならん」と言って上着のポケットから小型の一眼レフを取り出す。写真を撮るわけではない。ニコニコしながら手でカメラの感触を確かめるようになで回し、ファインダーをちょっとのぞいては、またカメラをポケットへと戻すのだ。

 今思えば、そのカメラはコンタックスの139クオーツ(CONTAX 139 QUARTZ)にテッサー45mm F2.8を付けたものだった。ストラップなどという無粋なものは外してある。139クオーツはカメラ本体とワインダーがセパレートになっているタイプで、ワインダーを外せばかなり小型になる。それにテッサーという組み合わせは、僕の目から見ても「大人の粋な選択」という感じがした。僕もいい歳になったら絶対にやってやろうと思っていたのだ。テッサーの似合う大人になることが目標になった。

 その「いい歳」になったとき、時代はデジタルになっていた。コンタックスは写真分野からの撤退を決め、オリジナルのテッサーをデジタルカメラで使うという夢は潰(つい)えた。マウントアダプタを使う手もあるが、せっかくの薄いレンズが分厚くなってしまう。そこで、ほかのメーカーのテッサータイプレンズを探すと、このニコンのパンケーキが浮上したのだ。

 このニッコール45mm F2.8P(Ai Nikkor 45mm F2.8P)も、2006年に製造中止がアナウンスされ、僕は慌ててカメラ店に走ったのだった。これを逃したら3群4枚のオリジナル設計でマニュアルフォーカスのテッサーはもう手に入らない。このレンズはCPU内蔵の、電気接点を持っているレンズなので、今後の新型デジタル一眼にも対応できるのだ。

 実際に撮影してみる。もともとテッサーは「ヌケのいい」シャープな描写に定評があったが、このニッコールはさらにシャープネスが増した感じだ。おそらくレンズのコーティングを変えたり、鏡胴内の乱反射を抑えたりして画質を追い込んでいるのだろう。デジタルでも長く使えそうなレンズだ。

 手持ちのデジタル一眼レフに取り付けて街へ出てみる。先生を見習ってストラップはなし。裸で上着のポケットに突っ込む。

 「どうですか、僕もテッサーが似合うようになりましたか?」

 先生がすでに亡くなられた今、評価してくれる人はいない。答えは永遠に出ないのだが、僕は笑顔でいつもよりゆっくりと歩き出した。

※参考文献:『図解 レンズがわかる本』 永田信一・著/日本実業出版社・刊

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