セキュリティ的に見て、一定程度危険であることを把握しながらも、内閣官房デジタル市場競争本部が「アプリ代替流通経路(サイドローディング)」を強制する規制を通そうとする理由は一体何があるのだろうか。同本部の資料では匿名のパブリックコメントが並べられているが、総括すると現在、AppleのApp Storeが唯一のアプリ入手手段であり、アプリ内課金の経路であることが自由競争を阻害している、というものだ。
2008年にApp Storeのサービスが誕生してから、LINEやガンホー・オンライン・エンターテイメントの「パズル&ドラゴンズ」といった社会的にも大きなインパクトを与えたアプリが生まれ、Angry Birdsで大成功したフィンランドのRovio Entertainmentなど多くの大企業、さらに世界中に多くのアプリ長者がこのApp Storeのおかげで誕生した。
App Storeでは、2020年までに180万本以上のアプリが流通され、それを提供する世界中の開発者らは1550億ドルの売り上げを得ている。日本でも、多くの開発者がこのApp Storeのおかげで大きな経済的成功を収めている。
その可能性をいち早く察知した政府は、2009年3月には優秀なデジタルコンテンツやサービスの制作者を表彰する「デジタル・コンテンツ・オブ・ジ・イヤー‘08/第14回 AMD Award」にて「App Store」に大賞の総務大臣賞を贈るまでして歓迎もしている(当時の総務大臣は鳩山邦夫氏)。
App Storeのオープン当初から辞書アプリを提供してきた物書堂も、App Storeで大成功を収めている零細企業の1つだ。現在、わずか4人ほどの会社ながらこれまでに4億円ほどを売り上げている。
代表の廣瀬則仁(ひろせのりひと)氏によれば、最初の頃は人力のアプリ審査に時間がかかるなど、それなりに問題も多かったが、15年の間にApp Storeのサービスはかなり洗練され、ユーザーにとっても開発者にとっても使いやすいものになったと廣瀬氏は振り返る。
Appleが提供するアプリの開発環境との連携も良く、開発/テスト/流通までを流れるように簡単にできる点も素晴らしいという。
その廣瀬氏は「アプリのストアが他にも追加されると、その分テストをすることなど手間が煩雑になる。そのストアを利用することで確実に収益が上がるなら利用したいが、そうでないならあまりメリットを感じない」と言う。
最近では、物書堂のような中小規模の開発者は売上の15%をAppleに手数料として収める必要がある。この手数料は2020年までは30%だったが、同年から年間売り上げが100万ドル(1億3000万円)以内の開発者は15%で済むようになった。
廣瀬氏は手数料は安いに越したことはないが、以前の30%であってもフェアな価格だったと語っている。
廣瀬氏は、iPhone登場以前はエルゴソフトでワープロソフト「EGWORD」などの開発に関わっていた。当時のCD-ROMによるソフトウェア販売では、流通会社に3割ほどを支払っており、以前のApp Storeと同じだったという。物流と同じ手数料と聞くと高くも感じるが、物流では例えばソフトをアップデートするためにCDを送付する費用や手間が発生したりしていたが、App Storeではそういった手間がない。
PC用ソフトのオンラインの流通場所としてはVectorなどが有名だが、こちらの手数料は15%と、現在のApp Storeの手数料と同じだ。
「Appleはこれだけの料金の徴収で、アプリを世界に流通してくれるし、アプリ流通のためのサーバなども提供してくれる。辞書アプリなどはデータ量も大きく、何か問題があってデータを再配布すると言った場合も、それなりにデータトラフィックが生じ、Amazonなど他社のサーバサービスを使ってアプリを配布する場合、それなりの費用が発生してしまう」と言う。
App Storeが徴収している料金には、決済にかかる手数料や手間から、ホスティングやアプリの広報といったものまで含まれているということを考えると、正当な手数料だと廣瀬氏は見ている。
2022年、フジテレビ系列ドラマ「Silent」にも登場し話題になっている音声認識アプリ「UDトーク」を開発するShamrock Recordsの青木秀仁代(あおきひでひと)表取締役は、そもそもアプリを審査してくれることも大きなメリットだと語る。
App Storeの審査では、アプリが説明通りにちゃんと動くかの確認をしてからアプリを流通させている。Shamrock Recordsのような小規模な開発会社では、アプリの十分なチェックができていないこともあり、何度かApp Storeの審査時に、例えば英語環境で使用した場合にうまく動作がしなかったことや、説明の文言が欠けていたことなどを指摘してもらい助けられたという。
これなどは、人力でここまで手間をかけているからこそ得られるApp Storeの安心さを示すエピソードだ。
筆者は兼ねてから、Appleの精神の“背骨”を作ってきた重役を何度もインタビューしているが、ジョブズ氏の右腕としてワールドワイドマーケティングを担当しApp Storeの基本コンセプト作りにも大きく貢献してきたフィル・シラー元上級副社長なども、Appleは「ユーザーがAppleの製品を通して得られる全ての体験に対して大きな責任を感じる会社」だと説明しており、「そこにはApple製品上で利用する他社製アプリを通して得る体験も含まれている」と語っていた。
だからこそ、Apple直営店のジーニアスと呼ばれるエキスパートには、他社製アプリの不具合や使い方についても相談することができる(こうして、直営店からアプリ開発者に不具合や改善要求などを伝える循環が生まれる)。そんなAppleだからこそ、アプリを1つ1つ丁寧に審査して、ユーザーが良い体験を得られるように全力を尽くすことは自然な流れだった。
しかし、ここでビジネス目的の第三者がアプリの流通業を始めたとしたら、果たしてAppleと同じだけの責任感を持って、アプリで得られる体験やセキュリティを守ってくれるのだろうか。ここまでしっかりとした審査をし、アプリ流通のためのサーバも用意するとなると、それなりに人材やサーバの費用がかかるはずだが、政府の規制を追い風にアプリストアビジネスに参入しようとしている事業者には、果たして本当にそこまでの覚悟があるのだろうか。
万が一、問題が起きたとしても「汚れるのは“他人の庭”だし、謝罪して賠償金を払えば済むこと」といった“甘え”から、甘い審査をしてしまうこともあるのではないだろうか。
もし、サイドローディングを強制的に認めさせる一方で、ストアの安全性について規制を設けないというのであれば、それは権力の力を借りたiPhoneのセキュリティへの攻撃でしかない。
「モバイル・エコシステムに関する競争評価」に関するこれまでの議論を見てくると、どうしても最初から「サイドローディングをやりたい」と言う結論が決まっていて、その上で結論を肉付けしている印象を受けてしまうが、果たしてそこまでしてアプリ流通をしたがっているのは一体誰なのだろう。
最新の資料では、公正取引委員会が190人ほどの開発者を対象にしたアンケートで、90%のアプリ開発者が「アプリ自体の販売やアプリ内課金に係る手数料を低く抑えたい」と答えていることなどを提示し、暗にApp Storeの公正性に疑問を投げかけている。
しかし、アプリ販売というビジネスを営む開発者や経営者にそんな質問を投げかけても、そう答えるのは当然だろう。実際、今回取材した物書堂の廣瀬氏やShamrock Recordsの青木氏も、App Storeが唯一のアプリ流通手段であることが、流通の管理を簡単にする視点からも、安全性の面でも望ましいという立場だが、上の質問をしてみたら「手数料が安いに越したことはない」と答えている。
会議の他の資料には、過去の議論で「危険」として議題から外されていたアプリ流通ストアの「プリインストール」の話なども蒸し返されている。プリインストールとは、iPhone購入した時点で最初から、Apple以外のアプリストアがインストールされている状態のことだ。
テクノロジーに詳しくない人は、おそらく信頼し切ってそこからアプリを入手することになるだけに、かなり信頼性が高く責任を負う能力が高い企業でないと展開できない。一番、可能性として高そうなのは携帯電話のキャリアだが、果たしてそうなのだろうか。
もし、そうだとしても最近ではさまざまな規模や実績の携帯キャリアが混在している。アプリ流通をする事業者に対しては、何らかの厳しい基準や罰則規定は必須だろう。
サイドローディングが行われたところで、中小のアプリ開発者のビジネスについては特に変化はなさそうで、おそらく変化があるとしたらアプリ流通ビジネスに乗り出そうとする企業や、現在、Appleに30%の手数料を収めている少数の大企業だろう。
中小の企業の応援をすることなら分かるが、一部の大手企業の後押しのために規制を行うのは果たして政府の仕事なのだろうか。
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