テクノロジーはあなたの「道具」? あるいは「支配者」? Apple担当者と日本のアカデミアの議論から見えること(1/4 ページ)

» 2025年08月25日 12時00分 公開
[林信行ITmedia]

 「このアプリを利用するには、利用規約とプライバシーポリシーに同意してください」

 私たちの多くが、この一文に続く長大なテキストを読まないまま、「同意する」というボタンを押した経験があるだろう。

 なぜ、製品やサービスはあれほど直感的で使いやすくデザインされているのに、私たちの権利に関わる最も重要な文章は、かくも難解で人を寄せ付けないのだろうか。

プライバシー Apple 慶應義塾大学 シンポジウム ポリシー テクノロジー インターネット シンポジウム「データ駆動社会におけるプライバシー保護の重要性」の核心であるパネルディスカッションの登壇者。右から林秀弥氏、呂佳叡氏、カライスコス・アントニオス氏、エリック・ノイエンシュヴァンダー氏、山本龍彦氏。企業や法学、そして国際的な視点が交差し、多角的な議論が展開された(写真提供:Apple)

「泳げないプール」を作り続けるIT業界

 この素朴な疑問の裏には、現代社会が直面する深刻な問題が潜んでいる。この状況を、慶應義塾大学大学院の山本龍彦教授は、「実質的に同意ができない。ユーザーが主体になれない構造になっている」と指摘する。

 これは、8月20日に慶應義塾大学で開催されたシンポジウム「データ駆動社会におけるプライバシー保護の重要性」での一幕だ。プライバシー保護設計を重視するAppleと日本の学術界の思想が交差する、極めてまれな機会となった。

 先ほどの「同意」の設計について、山本氏はこんな比喩でその構造を暴き出す。

 「事業者は、利用者が泳げるようになることを望まない。だから、わざと泳げない構造のプールを作る。当然、利用者は泳げない。その時、事業者は『あなたに泳ぐ能力がないのだから、諦めるべきだ』と主張できるだろうか?」

プライバシー Apple 慶應義塾大学 シンポジウム ポリシー テクノロジー インターネット 山本龍彦教授は「プライバシーとは、誰と情報を共有するのかを自ら決定(コントロール)することと、共有先のセキュリティ構造、この2つが重要なのです」。シンポジウム全体を通して、テクノロジー社会における個人のコントロールの重要性を問い続けた
プライバシー Apple 慶應義塾大学 シンポジウム ポリシー テクノロジー インターネット 山本龍彦教授が提示した「泳げないプール」論。スライドでは、この比喩を民主主義の議論へと接続させている。「全員が政策を読んで理解しているわけではない」ことを理由に選挙権を停止すべきか? という問いを投げかけ、安易に「同意は無意味だ」と結論付けることの危険性を指摘した
プライバシー Apple 慶應義塾大学 シンポジウム ポリシー テクノロジー インターネット 山本教授は、現代におけるプライバシーを「誰と共有するかを決定すること+共有先の『構造』」と再定義。常時接続の世界ではプライバシーは自然には確保されず、「人為的に構成される『くつろぎ』」として、意識的に設計されなければならないと論じた

 私たちは自ら主体的に選択しているつもりで、実は巧みにデザインされた「泳げないプール」の中で、事業者にとって有利な選択をするよう静かに強いられている。山本氏の言葉を借りれば、私たちはサイバー空間における自律した「主体」ではなく、データを操作される「客体」へと追いやられているのだ。

 このシンポジウムは、慶應義塾の創設者である福澤諭吉が近代日本の理念として掲げた「独立自尊」(他者に依存せず自らの尊厳を保つ)という思想を、現代のデジタル社会に再定位する野心的な試みである。主催のX Dignityセンターは、「個人データが当該個人の知らぬ間に取得/取り引きされ、「この人はこんな人」 というプロファイリングが行われる現状を問題視する。

 この環境は、人間の自律的な意思決定を蝕み、福澤が説いた「独立自尊」とは対極にある。センターは「果たして人間は自己の尊厳に配慮したテクノロジーを手に入れることができたのであろうか」と、テクノロジーと人間性の関係性に根源的な問いを投げかけている。

Appleシニアディレクターと日本のアカデミアが議論

 この深遠なテーマに挑むため、異色のパネリストが集結した。

 モデレーターを務めるのは、憲法学の視点から情報社会論を展開する山本龍彦氏(慶應義塾大学大学院法務研究科 教授)。パネリストには、日本の法学界から、競争法の観点からプラットフォームビジネスを分析する林秀弥氏(名古屋大学大学院法学研究科 教授)、消費者法を専門とし、ユーザーを欺く「ダークパターン」の問題に深く切り込むカライスコス・アントニオス氏(龍谷大学法学部 教授)、そして総務省での法改正経験を持ち、情報通信分野の実務に精通する呂佳叡氏(森・濱田松本法律事務所 カウンセル弁護士)が名を連ねる。

 そして、このシンポジウムを特異なものにしているのが、Apple本社から来日したエリック・ノイエンシュヴァンダー氏(インターネット技術 & ユーザープライバシーシニアディレクター)の存在だ。彼の登壇は、この課題の解決についてやや諦め気味だった他のパネリストたちに対し、理念に基づいた具体的な解決策が実在し、それをAppleが現に実践しているという事実を改めて認識させる機会となった。

プライバシー Apple 慶應義塾大学 シンポジウム ポリシー テクノロジー インターネット エリック・ノイエンシュヴァンダー氏は「私は楽観主義者です。テクノロジーが進化しても、デザインはユーザーを導くことができると信じています。人間は適応できるのですから」。技術的な課題に対し、常に人間中心のデザインで応えようとするAppleの思想を紹介した
プライバシー Apple 慶應義塾大学 シンポジウム ポリシー テクノロジー インターネット シンポジウムの冒頭、基調講演を行った米Appleのエリック・ノイエンシュヴァンダー氏は、まず同社の揺るぎない理念として「Privacy is a fundamental human right」から話し始めた このスライドは、本シンポジウム全体の基調となる哲学的立場を明確にした
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