島根富士通の歴史をひも解くと、その発足に至った経緯には、富士通の8代目社長を務めた小林大祐氏、その後を継いだ9代目社長の山本卓眞氏の2人が大きく関与している。
小林氏は旧制松江高等学校(現在の島根大学の母体の1つ)の出身で、同窓会の場で地元国会議員と話し合ったことをきっかけに、島根県内への工場進出を前提とした現地調査を行った。しかし条件が整わず、一度は話が白紙となった。
しかし地元からの強い要望はその後も続き、社長が山本氏に替わったタイミングで再検討。その結果、1984年に旧斐川町に進出することが正式に決まった。同年には用地取得に関する協定書に調印し、翌1985年から造成が開始された。
旧斐川町というと、当時は荒神谷で大量の銅剣が出土された直後だったこともあり(参考リンク)、島根富士通の進出候補地においても、埋蔵文化財調査が実施された。22班で構成するという体制によって、急ピッチで調査が行われたというエピソードが残っている。
富士通は当初、この場所を半導体工場として操業するつもりだった。しかし、日米半導体摩擦の影響などを受けて計画を見直すことになり、工場建設が“無期延期”という判断が下された。
その後1988年、山本社長が「島根への早期進出には、生産品目の見直しが必要」との見解を示し、将来のPC事業の拡大を見越して、PCの生産拠点として活用することを検討し始めた。同社内では1989年10月、「パソコン専門工場プロジェクト」を開始し、富士通グループとしては初となるPC専門工場として建設されることが決定した。
誘致活動を開始してから、ちょうど10年を迎えるタイミングでの正式決定だった。
先述の通り、島根富士通は1989年12月に法人として設立された。そして1990年10月、操業を開始している。
出雲大社が控える出雲の地において、旧暦の10月は神様が集まる「神在月(かみありづき)」と呼ばれる特別な時期だ。これに合わせて、操業開始を10月にしたという経緯もあるようだ。
操業開始翌年の1991年度は、年間11万2000台の生産規模だった同社だが、2020年度には過去最高となる年間240万台のPCを生産。2022年度実績でも、年間約170万台のPCを生産している。
現在では、名実共に日本で最大規模の累計生産台数を誇るPC専門工場に成長した。冒頭でお伝えした5000万台記念モデルの動向を含め、今後の歩みが気になるところだ。
※記事初出時、一部表記に誤りがありました。おわびして訂正します(2024年3月18日午前10時45分)。
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