フジヤカメラから新井薬師へ――お守りという金属矢野渉の「金属魂」Vol.25

» 2012年04月25日 17時30分 公開
[矢野渉(文と撮影),ITmedia]

カメラを求めて飲み屋街に入り浸る

 僕の財布の中には、いくつかお守りが入っている。金属のものはゴロゴロしてじゃまなんだけど、つい捨てられずにいる。運が逃げる、というより思い出が消える気がして。

 結婚をして、安い2Kのアパートを借りて住み始めたのが新井薬師前だった。東京で最も人口密度が高い、とは聞いていたが、実際に住んでみると実感があった。幅が1メートルもない路地がいくつもあって、それが近道だったりしたから。家がギュッと詰まったような下町だった。

 西武新宿線の新井薬師前駅から5分、JR中野駅から歩いても10分ぐらいの場所にアパートはあった。僕は特に中野駅側から帰宅する道が好きだった。サンモール街の裏道である新仲見世通りを抜ける。ラーメンの青葉はまだなかったな。サントリーバーのブリックやニュー浅草、俺んちpart2などの安い飲み屋が並び、新宿などより安心して飲める穴場だった。

 この飲み屋街の中に中古カメラを扱う「フジヤカメラ」がある。写真を始めたころには毎日のように入り浸っていた。大学時代から中野近辺に住んでいた僕は、このフジヤカメラと新宿のヨドバシカメラのおかげでカメラマンになれたのかもしれない。

 カメラ(新製品から中古まで)に精通したフジヤカメラの店員さんはその道のプロだった。生半可な知識で話しかけるとやんわりと否定されたりする。くやしいからまた勉強して店に行く。その繰り返しが今の僕の原点になっている。

 中野ブロードウェイの横を過ぎると早稲田通りに出る。信号を渡れば「薬師あいロード商店街」(旧薬師銀座)だ。新井薬師の門前市という趣だ。この狭い道をだらだらと北上し、途中にある酒屋で、ハイランドモルトの名前も知らないスコッチを買って帰宅するのが常だった。

 休日には妻と連れ立って近くを歩きまわった。近所のセブンイレブンの前の柳通りを横切ると例の幅1メートル未満の路地がある。妻と目を合わせて息をひそめ、足音をさせないように歩いた。家の窓かな、と思って見ると表札が掛かっていたりする。別に私道でもなんでもないのだが、薄暗い路地には何か日常的でない雰囲気があった。

 路地を抜けるとさっきの薬師あいロードに出る。急に日が差した感じだ。ちょうどその角にある甘味屋でよくおやつを食べた。僕はそこのおじいちゃんがつくるヤキソバ(目玉焼きがのっている)が好きで、ビールを飲みながら出来上がりを待っている時間が気に入っていた。

 ぶらぶらと薬師の方へ歩き、いろいろな物を買った。坂本商店(味噌をカメで置いてあり、量り売りしてくれる)で仙台麦味噌を1キロ、貝の専門店でしじみを500グラム買うのが定番だった。いつも十三湖産にするか宍道湖産にするか迷い、結局十三湖のしじみを買った。ここのは蛤(はまぐり)ぐらい大きかったからだ。翌朝にはうまい味噌汁が飲める。

 泥棒市場(ディスカウントショップ)を冷やかして、ダイコク(電器屋)をのぞき、リッチ(洋食屋)の横を過ぎれば、もう新井薬師(新井山梅照院薬王寺)だ。


We've only just begun

 市の立つ日にはいろいろな出店が出ている。今は懐かしくなったチョコバナナとかあんず飴もある。お参りを済ませるとおみくじ、お守りだ。写真のものは初詣のときに買ったものだ。今年は運がいいよ、なんて言いながら薬師の裏に抜ける。ここから新井薬師公園だ。市の日には、ここでいつも踊っている男がいる。ラジカセで演歌を流し、着流し、白塗りで見得を切っている。

 ベンチに座り、大きな滑り台で遊ぶ子供たちを眺める。ここは桜も有名だ。春の花見はいつもここだった。この桜をひと通り撮影したあと、裏にある中野通り沿いの桜並木を撮影しながら、妻と中野まで歩いたものだ。

 やがて僕らにも子どもができ、妻は近くのK産婦人科医院で娘を産んだ。その病院も、すでに2代目へと代替わりし、新しいビルになっている。

 なんでもない日常だけど、全部憶えている。

 別々に暮らしてきた2人がこの街で一緒に暮らし始めて、不器用だけどお互いのことを思いやって生きていた。あのころのすべてがこの街の中にあった。

 娘が幼稚園に入る年に引っ越してしまったけれど、僕たちはときどきこの街に帰って来なくちゃいけないな。そしてもう一度薬師あいロードをぶらつこう。そして新井薬師のお守りを買って、なんでもない会話をしよう。

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