そして誰もいなくなった感動のイルカ(2/2 ページ)

» 2009年08月26日 13時00分 公開
[森川滋之,Business Media 誠]
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 3カ月後のある日、浩は二日酔いで午後から出社した。部長が寄ってきて、会議室に来るようにと言った。

 「なあ、猪狩。おまえ疲れてるみたいだな」

 「いや、別にそんなわけじゃ」

 「今日のことじゃない。最近ずっとだ」

 浩は無言だった。部長はそれを肯定と受け取った。

 「おまえも課長待遇だからフルコミッションじゃないとはいえ、コミッションがつかないと苦しいだろ?」

 浩の手取りは、減俸中とはいえ月50万円だ。苦しいことはない。しかし、一度身についた浪費癖のせいで、以前より出費をかなり抑えているとはいえ、貯金は目減りしている。根本的な変化が必要だと感じてはいる。

 「分かってるとは思うけど、この世界、やる気だけなんだよな。やる気がなければ、ダメになってくだけ。自覚あるんだろ?」

 「やる気はあるつもりです」

 「じゃあ、何で成績が出ない。何で、あんなヘマをやる?」。ヘマとは例の取り込み詐欺のことだ。浩は再び黙り込んだ。

 「不況かもしれないけどな、やる気があった頃のおまえだったら、この倍は稼いでたんじゃないか?焦って、あんなヘマもしなかったんじゃないか?」

 部長はこれ以上叱責する気はないらしい。一息つくためにお茶を飲み、30秒ぐらいの間、黙って浩の様子を観察していた。そして、ようやく切り出した。

 「おまえの以前の成績には、会社とはしては報いてやりたいと思っている。自主退職するなら、退職金は規定通り出そう。会社の温情を汲んでくれ」

 「それは、辞めろってことですか?」

 「その通りだ」

 「なぜです?」

 「自分の胸に聞け。これ以上言わせるな。1週間だけ待つ。いいな?」

 部下はいなくなった。清美も去ってしまった。会社からも追い出されようとしている。自分の何が悪かったんだろう――浩にはさっぱり分からなくなってしまった。無性に飲みたかった。

 思い出して、啓太の会社に電話をした。こういうときに啓太だけは何か教えてくれるかもしれない。あいにく啓太は海外出張中で、半月は帰ってこないとのことだった。貿易の仕事が順調に行っているのだろう。さすがは啓太だ。それに引きかえ……。

 一人で限界まで飲んだ。3軒目までは覚えている。その日に行ったのが4軒だったのか5軒だったのかは覚えていない。

 気がついたら、路地の上だった。唇に血がにじみ、スーツの膝がすり切れていた。唇は誰かに殴られたのだろう。スーツは転んだときに破れたに違いない。そう言えば、誰かとぶつかって口論になった気がする。財布の中身はほとんど空っぽだったが、数枚の千円札と小銭、クレジットカードなどが無傷で残っていた。物取りの仕業ではなかったようだ。

 小雨が降っていた。この格好じゃタクシーも乗せてくれないだろう。なあに徒歩でも1時間もあれば帰れる。浩はとことん惨めさが味わいたくなった。

 翌日会社は休んだ。怪我はたいしたことはなかったが、ひどい頭痛がする上に、顔を殴られた跡も若干残っている。幸い今日は金曜日だ。3日もあれば消えるだろう。その間、じっくり考えることにしよう。

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著者紹介 森川滋之(もりかわ・しげゆき)

 ITブレークスルー代表取締役。1987年から2004年まで、大手システムインテグレーターにてSE、SEマネージャーを経験。20以上のプロジェクトのプロジェクトリーダー、マネージャーを歴任。最後の1年半は営業企画部でマーケティングや社内SFAの導入を経験。2004年転職し、PMツールの専門会社で営業を経験。2005年独立し、複数のユーザー企業でのITコンサルタントを歴任する。

 奇跡の無名人シリーズ「震えるひざを押さえつけ」「大口兄弟の伝説」の主人公のモデルである吉見範一氏と知り合ってからは、「多くの会社に虐げられている営業マンを救いたい」という彼のミッションに共鳴し、彼のセミナーのプロデュースも手がけるようになる。

 現在は、セミナーと執筆を主な仕事とし、すべてのビジネスパーソンが肩肘張らずに生きていける精神的に幸福な世の中の実現に貢献することを目指している。


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