教師、医師などは別にして、心から「先生」と呼べる人物は少ない。政治家や作家に対する「先生」は、多少「センセイ」的な皮肉が入っていたりするものだ。
僕にとっての真の「先生」は手塚治虫先生だ。母が手塚漫画の大ファンだったこともあり、これは刷り込みとも言えるのだが、今は僕の娘もちゃんと「手塚治虫先生」とフルネームで呼ぶ。この、親子三代に渡る影響力は大変なものだ。でも、母の手塚漫画を通しての子どもへの教育は間違っていなかったと思う。
『鉄腕アトム』から入って『ジャングル大帝』、『ブラックジャック』……。どれも根底に壮大なテーマが流れていた。そのときはそれが理解できなくても、心の中には手塚先生のメッセージが確実に残ったのだ。そして能やシェークスピアなどの古典をベースとした話の骨太さや、医学などの専門知識で確実に読者を引き込む話の緻密さ。一体どれだけのことを僕は手塚先生の漫画から学んだのだろう。
『火の鳥』と『ブッダ』だけは、リアルタイムでは子どもだったので難解すぎたが、何度も読み返して何となく僕なりに結論は出た。これらの作品がなかったら「人はなぜ生きるのか」などという哲学的な問題など考えることもしなかったろうし、宗教など気にもしないで生きていたはずだ。
そんなに難しいことを考えなくても、手塚ワールドは子ども心をワクワクさせるには十分だった。未来のロボットや反重力で浮遊する車などに対する興味と、それを開発する技術者たちの格好よさ。あのとき、お茶の水博士や天馬博士のラボでランプを光らせながら動いていた巨大な装置は、今思えば「コンピュータ」だったのだ。僕がPCまわりのモノに引かれるのは、ここに原点があるからだろう。
僕が写真の仕事を始めたころ、撮る写真と言えばインタビューものばかりだった。芸能人もいたし、普通の人もいたが、とにかく毎日インタビュー中の表情を追いまくっていた記憶がある。
「これはひょっとしたら手塚先生に会えるチャンスがあるかも」と思い、僕は記事の企画書の中に手塚先生の名前を紛れ込ませてもらった。
するとその日はあっけなくやってきた。
夏の暑い日、僕は新調したばかりのラルフローレンの白いTシャツを着て、高田馬場にある手塚プロダクションのビルへと向かった。アトムの人形が置かれた手塚先生のデスク前のソファで待つことしばし、その人は「どうもどうも」と言いながら笑顔で現れたのである。
話の内容はまったく思い出せない。僕は汗をかきながらシャッターを押し続けた。そのとき僕は神を目の前にしていたのだ。神はずっと上機嫌だった。
インタビューが終わると、僕は神にお願いした。母に送りたいのでTシャツの背中にサインが欲しいと。笑顔のまま神は油性ペンを走らせてくれた。30秒ほどたっただろうか。鏡で背中を見ると、そこには「火の鳥」の全身像が……。
手塚先生が下書きも何もなく、いきなりペン入れをするといううわさは本当だった。神はまた天才でもあったのだ。このTシャツは実家に家宝として飾られている。
写真の「ゲームボーイライト」は1998年の夏に秋葉原で行われた「手塚治虫ワールドショップ」というイベントで限定発売されたものだ。トランスルーセントの筐体で、中の基板が見えるところが理科系だった手塚先生の雰囲気をよく伝えている。
買ってから一度も電源を入れていないが、それでいいのだ。これは感謝のお布施なのである。手塚先生が僕に与えてくれたものに比べたら、些末(さまつ)なことだ。
それでもこうしてときどき取り出して、PCやタブレットで漫画を描くようになった今の時代に、手塚先生が生きていたらどう対応していたろうか、などと妄想してみる。
きっと僕は死ぬまで、神と会えたあの日のことを反芻(はんすう)しながら巡礼を続けるのだろう。
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