なぜ子供たちはつながりたがるのか(3)小寺信良「ケータイの力学」

» 2013年11月25日 16時02分 公開
[小寺信良,ITmedia]
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 前回前々回と引き続き、筑波大学 大学院 人文社会系教授 土井隆義先生のご講演を参考に、子供社会におけるつながりの関係を考える。土井先生の著書としてちくま新書『友だち地獄 - 「空気を読む」世代のサバイバル』はすでにご紹介したが、合わせて岩波ブックレットから出ている『「個性」を煽られる子どもたち - 親密圏の変容を考える』、『キャラ化する/される子どもたち - 排除型社会における新たな人間像』も、現代の子供社会を考える上で参考になるので、合わせてご紹介しておきたい。

 さて、実際に子供を持ち、育てていると、子供社会も自分が子供の頃と大きく変わってきたことを実感する。例えば小学生の娘が放課後友だちと遊ぶ約束をして帰るわけだが、いつもほぼ2人でしか遊ばない。相手が代わるにしても、いつも誰かと2人きりだ。

 あとから他の子が今日遊べる? とやってきたり電話がかかってきたりするのだが、今日は○○ちゃんと遊んでるから……と断わっていた。誰が教えたわけではないだろうが、何かこう、互いの関係を独占し合っているように思える。「みんなで一緒に遊べばいいじゃない」とアドバイスしてみたところ、3人目を加えるときは「○○ちゃんも遊びたいっていうんだけど、いい?」と遊んでる子の認証が必要になった。

 筆者は男同士の、基本的にバカばっかりやっていた子供時代のことしか分からないので、女の子はまた違うのかなとも思うのだが、娘が小さい頃は数人で遊ぶことにいちいち認証など必要なかったので、やはり成長するにつれて、子供社会独自の認証ルールというものが形成されているようだ。

 我々が子供のころ、親友の間柄とはどういうものだったかを思い出してみると、相手に対していちいち「オレとオマエは親友である」と宣言などしていなかったように思う。気が合うからいつも一緒にいるというだけで、親友という関係認証は十分だった。

 だが今の子供たちは、とくに中高生ぐらいでは、相手と自分の関係を宣言して認証しないと、親密になれないのではないか。また、そうやって宣言によって作られる親密さとは、非常に芝居がかったものになるため、本当の自分を表出しあう関係ではないのではないか。

 先日、Twitterの投稿画像で“「うわべだけの友達との会話」と「本当に仲良しな友達との会話」の差”というのが話題になったことがある。出典が不明なのでリンクはしないが、上記キーワードで検索してみて欲しい。

 「うわべ」とされるLINEのやりとりでは、過剰に相手の言葉に反応し、大仰な絵文字と感情表現でお互いの関係を認証し合っている。一方「本当に仲良し」とされた会話では、言葉数が少なく乱暴な言い回しだが、おそらく素の自分が表出しているにもかかわらず、関係性が崩れていないことが分かる。

 同様の会話は、結婚しそうな男女とそうでない男女というサンプルもあったはずだ。

現代の「親友」

 「うわべ」だけの親友関係を続けることは、大量に時間や労力を必要とする。上記のうわべだけの会話例では、1つのメッセージが返信されるまで1分、最長で2分かかっている。一方「本当に仲良し」の会話では、1分間に最大で4メッセージ、平均で2.5メッセージのやり取りが行なわれている。

 このような、濃密感を求められるコミュニケーションが主流だとするならば、このような関係を続けるだけで疲労困憊し、他人を気にする余裕はなくなってくる。前回、子供社会の島社会化について考察したが、元々このような型のコミュニケーション手法では、大量の人と親密になることは不可能だ。

 本来インターネット、特にSNSとは、人間関係を多様化するために存在する。ところが2008年頃から始まった警察による非出会い系サイト叩きにより、子供たちはネットで新しい友達を作ることができなくなっていった。したがって既存の人間関係、すなわち学校のクラスメイトといった、教育システムによってたまたま与えられた選択肢の中から、多少気に入らなくても相手に同調し、人間関係をより濃縮せざるを得なくなった。

 そこに丁度、LINEが登場した。新しい出会いを促進するものではなく、既存の関係をより濃縮するための装置である。そして子供たちは、より大量の時間的リソースを費やして親友ごっこを続けざるを得なくなったのが、現在のつながり依存の姿である。

 社会構造の変質により、人は個性的であることを求められるようになったことは、1回目で述べた。本来個性とは他人との差であり、それを自分で認識することで成立する。だが個性的であることは、同時に集団からの離脱でもある。

 しかし2回目の考察で述べたように、現代は自分の位置を測定するためには、周囲からの認証が必要となる。主軸が自分の中にないからだ。

 だから会話に中身がなく、その関係を続けるのが重くても、認証欲求が満たされるためには常に繋がって、相手を認証し続けるしかない。相手を認証すれば、相手からも認証が返ってくるからだ。

 この関係は、確固たる理由や共通目的があるわけではないので、非常に感覚的だ。つまり感覚を共有し、増幅するための関係である。従って相手に望むのは自己の延長であり、自分との一体化である。「仲良し」とされるプリクラ写真がたまにネットに流出しているが、このような関係性の2人は、ルックスまで似てくる。共同幻想に向かって、自己改造を行なうからである。

 だがこの関係は、お互いに異様に気を使い合わないと維持できない。なぜならば2人はDNA情報が近い双子や兄弟ではく、本質的には赤の他人だからだ。

 このような相手を決して傷付けず対立を避ける「優しい関係」は、相手に配慮して優しいのではない。優しくすれば自分にそれが返ってくるのがお約束になっているので、結果的には自分に対して優しくしているだけである。

 だからこのお約束が破綻すると、異常なほどに怒り狂う。古くは2004年の佐世保小6女児同級生殺害事件にて、2人は親友と見なされていた間柄で、なぜ短時間の間に殺害に及ぶほど関係性が悪化したのか、当時は多くの人が首をひねった。

小寺信良

映像系エンジニア/アナリスト。テレビ番組の編集者としてバラエティ、報道、コマーシャルなどを手がけたのち、CGアーティストとして独立。そのユニークな文章と鋭いツッコミが人気を博し、さまざまな媒体で執筆活動を行っている。最新著作は、ITmedia Mobileでの連載「ケータイの力学」と、「もっとグッドタイムス」掲載のインタビュー記事を再構成して加筆・修正を行ない、注釈・資料を追加した「子供がケータイを持ってはいけないか?」(ポット出版)(amazon.co.jpで購入)。


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