変化の中で、自らを制御できるものが生き残る何かがおかしいIT化の進め方(43)(4/4 ページ)

» 2009年06月23日 12時00分 公開
[公江義隆,@IT]
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グローバル化という環境変化に対応できない「脳」

 人の「脳」も、生物の長い進化の歴史の中ではぐくまれてきた構造と機能を持つ1つの器官である。そこには民族の歴史や文化、価値観に基づいた、あらゆる知識と経験が、消すことのできない複雑なネットワークとして記憶されている。しかし現在、“経済至上のグローバル化”と、“IT化・情報化”という環境変化が、このネットワークでは処理しきれず、さまざまな心理的ストレスの源になっているように思う。

 例えば「成果主義」は、多くの日本企業では成功しなかった。公平な評価指標設定、成果測定などが難しいといった問題もあるが、成果主義の前提である「個人主義」が、そもそも日本の文化にはなじまなかったゆえだろう。戦後、日本は従来からの価値観で経済志向の社会を目指して成功を収め、その結果、米国流の「経済至上」の考え方に走り、アイデンティティを見失い、特徴をなくして弱体化した。米国は、異文化、多民族の移民で成り立つわずか二百数十年の歴史の人工国家である。さまざまな背景を持つ“バラバラの個人”が、星条旗に向かい忠誠を誓うことによって求心力を作ってきた、そもそもが人工的価値観によるグローバル社会なのだ。

 もう一方の、3000年にわたって祖国を持つことができなかったユダヤ民族は、さまざまな迫害を受け、土地を持てず、物も持てなかった中で、金融知識などソフト能力を糧に、世界を住処として暮らす術を身に付けてきた。その意味で、もともとグローバルな民族である。

 少し極端ないい方をするなら、昨今の“経済を中心とするグローバル化”の中身は、この米国とユダヤ民族、両者の本質を反映したものだったように思う。渡来文化を取捨選択しながら独自のものにモディファイしてきた日本の文化には、にわかになじむものではなかった。

 大きな流れとしてのグローバル化の中にも、いろいろな道があるはずだ。例えば企業のグローバル化への対応という観点で、パナソニック(旧松下電器産業)とソニー(旧東京通信工業)は興味深い存在である。

 パナソニックは21世紀初頭、会社が危機にある中で、「事業部制」や「販社制度」など、屋台骨として長年会社を支えてきたやり方のすべてを見直した。そうした中で、当時の社長は「創業者、松下幸之助の残した経営哲学だけは残す」という基本方針で臨んだ。この会社は「経営理念を、内に向かってはその実践を徹底させ、世界に向かっては、説明し評価されること」が必須の課題となるのだろう。

 一方のソニーはグローバル化の先陣を切った会社である。創業者、井深大がしたためた会社の「設立趣意書」にあるユニークな経営理念は、いまでは同社Webサイトの「会社の歴史」に掲載されるだけの位置付けとなり、いまから10年も前に、日本人のCEOから「株主のためのソニー」といった発言がなされていた会社である。事業規模の拡大とグローバル化の中で、「自らを世界に問う」より、「自ら変化して外に同化する」道を選んだようだ。

 しかし一方で、新しい技術の結晶のような、高品位の、かつてわれわれを魅了した“ソニーらしい製品”を、近年目にすることがなくなった。いい過ぎかもしれないが、経営理念──「何のために、何をする会社か」という存在目的と社の価値観──が定まらず漂流しているかのようにみえる。この2社はそれぞれ、今後どのような展開してゆくのであろうか。

関連リンク
「私たちの基本理念」 (パナソニック)
「設立趣意書」 (ソニー)

“ITバブル”は、いまだに続いている

 グローバル化と同じように、IT化・情報化という環境変化についても、われわれの「脳」は処理しきれず、その心理的ストレスの一因になっているように思う。

 最近、大阪府といくつかの府県で、公立学校の生徒の携帯電話の校内持ち込みが禁止になった。一般市民で反対する人は少なかったようだ。校内の生活において、この道具が持つ問題点が無視できないほど行き過ぎたレベルにあることを、市民は直感的に感じ取っていたのであろう。人は誘惑に弱い生き物である。弊害や自己の弱点を結果的に助長することになる道具は、「道具自体」の問題であって、決して「使い方」や「使い方の教育」の問題ではない。

 憲法第25条に、「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障および公衆衛生の向上および増進に努めなければならない」とある。憲法記念日、テレビの街頭インタビューによる「最低限度の生活とは?」との問いに、「携帯(があること)」と答えた女子高校生がいた。同じ回答をした“派遣切り”に遭った人もいた。

 「携帯電話がないとコミュニケーションが取れない人」を増やし、「携帯電話がなければ仕事をみつけることも、必要な情報を得ることにも影響が出る 」という社会構造、そして「生活費の2〜3割もこれに使う」という若い人たちの経済感覚──冷静に考えれば異常な世の中だ。

 コンピュータ、インターネットについても同種のことがいえる。“IT革命”の名の下で、突出した経済至上思想が生んだIT環境もまた、人間を追い詰め始めている。“ITバブル”はいまだに続いている。“流行”を追って、道具に追われる状況から脱却すべき時期だ。

自らのスタンスを、自ら考え、明確化せよ

 われわれが作り上げてきた社会や組織のコントロールの仕組みは、驚くほど生体の調節機能に似ている。人の知恵もまた自らの仕組みに倣うものなのかもしれない。しかし、この半世紀、特にグローバル化が叫ばれたこの四半世紀、利潤と便益を際限なく追求する突出した「経済優先思想」と、それが求める「行動のスピード」は、自然界の長い歴史を通じて作り上げられてきた「人」という生体が持つ機能では、対処しきれないような環境を作り出してきたように思える。

 われわれが自然界から学べることは「バランス」の重要性であり、そのバランスが作り出す「秩序」である。そこに加わるわずかの変化と、長い時間を掛けた変化への対応が「進化」につながった。この「変化の大きさ」と「変化への対応時間」との間にも、然るべきバランスが存在するのだろう。大きな変化が短時間の間に起これば、生物は大打撃を受ける。事実、これによって多くの種が絶滅した。

 1つの評価指標だけで突き進めば、短期的にはよいようにみえても、どこかで行き過ぎて破綻する。バランスが取れた“全体最適”とは、 “ほどほど”のところに各要素があるというのが正解なのだろう。

 世界には実にいろいろな考え方や価値観がある。個人であれ組織であれ、そうした中で存在していくためには、それらにどう対処してゆくか、自らの存在価値をどこに見出すか、それを外に向かってどうアピールしてゆくかを真剣に考えることと、それに取り組む“覚悟”が必要な時期に来ているように感じる。

 そのために、異分野、異文化、歴史を学び、自ら考えることが大切だ。答えは1つではない。しかし、自らの答えをあいまいにすれば、受動的な発想から脱皮しなければ、“対応しきれない環境”に追い詰められ、事態はさらに悪化する。これは時間が解決する問題ではない。哲学の問題なのだ。

profile

公江 義隆(こうえ よしたか)

情報システムコンサルタント(日本情報システム・ユーザー協会:JUAS)、情報処理技術者(特種)

元武田薬品情報システム部長、1999年12月定年退職後、ITSSP事業(経済産業省)、沖縄型産業振興プロジェクト(内閣府沖縄総合事務局経済産業部)、コンサルティング活動などを通じて中小企業のIT課題にかかわる


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