「想定外」から脱却できる、真の対策を何かがおかしいIT化の進め方(50)(3/3 ページ)

» 2011年04月07日 12時00分 公開
[公江義隆,@IT]
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“日本の新しい形”を創造しよう

 いまは何もなくなった三陸沿岸の津波の跡の映像を見て思う。この地域の復興後の姿だ。いま、地面の上には何もなくても、見慣れた山並み、海岸線はある。生まれ育った土地を離れることは大変つらいことと思う。しかし、多くの人が亡くなり、全てのインフラが消滅したいま、元のように小さな漁港の町が多数集まった姿への復旧を目指しても、おそらく成り立ち得ないであろう。新しい町の形の創造が必要なのだと思う。

 一方、首都圏の市民は、いまは「こんなときだから」と、停電にも混乱にも辛抱を続けているが、やがて不満が大きくなってくるだろう。元の快適な生活に戻れるように「早く電力を何とかしろ」という声になり、産業界からも「日本経済のために〜」「これでは工場は海外へ出て行ってしまう」などと言い方を変えた強い要望が出てくるだろう。こんな声を、停まっている原発の稼動再開への圧力にする勢力もあるだろう。

 しかし、それはもう無理だと私は思う。「貧しい地方にお金をばらまいて、原発の危険を押し付け、大都市の市民が豊かな消費生活を享受する」という構造は、負担を沖縄に押し付けて安全保障を得てきた基地問題と同じ構造だ。

 いままで「原発は安全です」と言い続けてきた政府を信じろというのは、もう無理であろう。専門家の権威は地に落ちた。電力会社はどう考えても普通なら存在し得ない会社だ。経済産業省は全国の電力会社に対して、「原発の津波対策と、冷却機能の見直し」を指示したが、「また別の想定外の問題で事故を起こすかもしれない」と国民は思う。停止中の原発の再開どころか、現在運転中の発電所への不安も生じつつある。

 なお、電力会社には、さし当たっては、供給力の確保に頑張ってもらわなければならない。一方で、国民が努力して“今ここで得る節電・省エネの知恵”は、少し長い目で見れば、日本の良き未来に生かせる大きな財産になると思う。

 18世紀、産業革命を起爆剤に発展を遂げた現在の西欧型先進国社会は、民主主義自由経済の下、企業家は富を限りなく追求し、消費者は便益への欲望を限りなく求める社会であった。それを支えてきたのは「消費と労働力を支える人口の増加」「タダ同然の安価な資源」「イノベーション(技術革新)」であった。いま、そうした前提条件が崩れつつある。

 少子高齢化、人口減少、資源ひっ迫に加え、イノベーションのハードルがますます高くなってきた。やがて諸外国も後を追わざるを得なくなる。それらの問題の最先端に、日本は立たされている。われわれは「新しい社会」を自ら考え、作り上げていかなければならない立場に置かれているのだ。

 リーマンショックは、金融システムがわれわれの制御を超えるものとなり、世界経済を破壊した。国境を越えて、お金とモノが自由に動き回るグローバル経済を制御する術を、われわれはいまだに見い出せていない。

 抗生物質などの発明で一時は押さえ込めたかに見えた感染症対策は、耐性菌というより強くなった敵を生み出した。強毒インフルエンザの襲来を恐れる状態から脱却できていない。そして福島の原子力発電所の事故は、「われわれに原子力を制御する力があるのか否か」を突きつけた。

 スケールの小さい話になるが、地震の裏で起こっていた大銀行の巨大システムトラブルは一週間に及んだ。影でどれだけの被害があったのかは分らない。あらゆる分野において、問題が“人間の持つ能力では制御し切れないレベル”にまで複雑化、巨大化しつつあるように感じる。

明日への希望と、一歩一歩前進できることの幸福

 16年前、私は被災を免れた大阪のオフィスと、被災した自宅との間を往復する不思議な体験をしていた。自宅では本当にひどい生活であったが、近隣の人たちと協力し合う暖かいコミュニティがあった。被災した3日後、近くの谷川からパイプで引いてきた水が使えるようになったとき、さらに数日後、ガソリンスタンドにローリー車が来て一人20リットルのガソリンの配給を受けたとき、2カ月してガスが復旧して風呂を沸かせたとき、桜の花をバックに試運転する電車を見たとき……。ひどい状況の中でも、一歩一歩前へ進んでいくことが本当に嬉しく感じられた。人間は先に希望が見えれば、物事が進んでいると感じられれば、幸福感に浸れるものだと再認識した。

 65年前、日本は、東京も大阪も、広島も長崎も、その他の多くの都市も、焼け焦げたコンクリートのビルがポツポツと残るだけの一面の焼け野原で敗戦を迎えた。子供ながらに、そのころ見た神戸、大阪の景色はいまでも目に焼き付いている。その翌年、私は小学校に入学できた。バラック建ての教室、1クラスに60名を詰め込み、午前は1年生、午後は2年生が同じ教室を使う。その数年後でも停電は度々あった。そんな中から日本は復興した。しかし、豊かになれば、それを失うことを恐れて人々は不安を持ち、臆病になる。

 この震災、津波、原発事故で、日本は文字通り、未曾有の厳しい状況に追い込まれた。しかし、見方を変えれば、“ほどほどに悪い状態”では、かえって現状を捨てがたく、いわゆる「ゆでガエル」に陥りやすい。ここから覚悟して、これまでの経済一辺倒の古い日本に復旧するのではなく、新しい社会の創造を、みんなで力を合わせて目指せば、20年後には日本は再び世界の範たる「心豊かに暮らせる国」として存在できていると思う。第2次大戦に敗戦した1945年、東京オリンピックの1964年、バブル崩壊の1990年、その後の“失われた20年”。その背景の違いは何であろうか?

 目指すべきは、お金やモノの豊かさと便益への限りない欲求を律し、省資源に徹することによって得られる“余裕のある社会”だ。実現には時間が掛かる、国民みんなで考えるべき問題だ。若い人は努力して年寄りに言い負かされないだけの力を付けてほしいと思う。さまざまな問題について「自分はこうすべきと思う」と言い切れるまで考え詰めてほしい。批判をいくらしても本当の力はつかない。考えれば、少しずついろいろなことが分かってくる。

 ――「どうせ苦労せんといかんのやったら、先のことよう考えてやらんと損やで」。

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 震災地経験者としてのお願い: 家族を失った人、家やコミュニティを失った人、仕事を失った人、特にこれらの二つ以上を失った人の立ち直りは本当に厳しく何年も掛かる。できるだけ長く忘れず、支援を続けてあげてほしい。

 また、ボランティアで現地に行かれる人は、善意のつもりでも、現地の人の商売の邪魔になることのないように気を付けてほしい。ある段階を過ぎれば、外から持ち込まれる無償の支援物資やサービスが、立ち上がろうとする現地の人たちから商売の機会を奪ってしまう――阪神大震災で実際にあったことだ。義援金は現地で使われればそれだけ現地が潤う。

profile

公江 義隆(こうえ よしたか)

情報システムコンサルタント(日本情報システム・ユーザー協会:JUAS)、情報処理技術者(特種)

元武田薬品情報システム部長、1999年12月定年退職後、ITSSP事業(経済産業省)、沖縄型産業振興プロジェクト(内閣府沖縄総合事務局経済産業部)、コンサルティング活動などを通じて中小企業のIT課題にかかわる


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