阪神大震災10年目に考えること、するべきこと(後編)何かがおかしいIT化の進め方(23)(3/3 ページ)

» 2006年01月11日 12時00分 公開
[公江義隆,@IT]
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周辺の社会状況と

 阪神・淡路大震災のとき、筆者の自宅は震度7の地域にあり、1カ月弱の難民生活(?)を体験した(大企業にいたおかげで、小学校の体育館ではなく、会社の研修施設で寝泊りできた)。会社は震度5地域であったので、地震発生の当日中にシステム復旧の見通しが得られる程度の被害で済んだ。その直後、「喉元過ぎないうちに」と思い、災害対策の抜本的見直しを行った。

 その際に、被災企業の話を聞いて回った。地質学から建築分野までいろいろな資料や本を調べたり、知り合った大学の先生と断層や被災建物を見て回った。動かなかった断層でも、断層周辺の数十メートルの建物の被害は大きかった(市役所、区役所などに地域の断層地図がある)。中層階が押しつぶされているビルが多かった。1階を駐車場にしているような、壁の少ない建物はほとんど倒壊していた。

 アスベストが飛び交っていたであろう被災地を歩き回った。「最初は命が助かって良かったと思った。1週間たつとやっぱりお金がないとだめだと思うようになった」というリストラされてタクシー運転手になり、客がなくて商売にならないから明日から土木工事に出るという避難所で暮す人がいた。不景気の中でも、ギリギリ何とか頑張っていた多くの商店や町工場が地震でとどめをさされた。

 地震発生数日後から責任ある人たちの保身的言動が増えた。「震度6〜7の直下型地震を想定しては(コストが掛かりすぎて)都市は作れない。日本のほかの都市でも、同じ結果になるだろう」と公言する(正直?な)市長がいた。

 一生懸命に働く善意の人も多かった。宅配企業が被災地への発送受付けを断る中で、現場の郵便局員は、早朝から深夜まで何度も郵便小包を運んでいた。水道や電気・ガスの復旧工事に全国から集まった人たちが、徹夜で作業に当たっていた。

 「とにかく何かしないといけないと思い、駆け付けてきた」という多数の若いボランティアたちに、行政機関は当初冷たかった。地震発生から四十数時間後に関西国際空港に飛んできたスイスの12匹の救助犬と緊急救助隊は、市の都合で災害現場への立ち入りに半日足止めをくったという。同じ日に1時間で来られる東京から日本の首相が初めて現地を視察している。

 国は多くの外国からの支援の申し入れを断った。BBS上(当時インターネットはまだ普及していなかった)にはクリントン大統領が地震発生2時間後に在日米軍に対し、「あらゆる支援をするよう」との指示を出したという情報があった。公式には肯定も否定もされず実現はされなかったが、「横須賀から航空母艦を大阪湾に入れて、ヘリコプターで負傷者や病人を輸送をして艦上で治療に当たらす」という提案があったという報道もあった(例えば、被災地の人工透析の必要な患者の処置に医療関係者は随分苦労していたと聞く)。真偽のほどは分からないが、あるレベルでの打診ぐらいはあったのであろう。隣国の韓国からも、「要請があれば直ちに軍隊を支援に向かわせる用意がある」との申し出が地震発生直後にあったとの話もある。

 自衛隊は、混乱した県からの要請が遅く、状況の把握に時間を要したとの理由で初動に出遅れたが、撤収時には市民が作った「自衛隊ありがとう」という垂れ紙が道筋にあった。水がなく消火活動がまったくできない大火災に対して、ヘリコプターからの消火剤の散布案は、人体への悪影響の懸念があるとの理由で取りやめられ、自然鎮火を待つだけになった。2日後になってようやく幹線道路の交通規制がされて、やっと救援物資の輸送ができるようになった。法律の不備な問題や前例のない問題に対する行政の動きは鈍い。そう認識して対策を考えておくべきだろう。そのときになって批判や文句をいっても仕方がない。

 工場の風呂を一般に開放した企業、食料や飲料水を配布した企業など、地域へのサービスを行った企業は多い。筆者のいた医薬品会社でも、被災地で必要な医薬品を社内応募で集まった若手社員がバイクで届けて回った。被災者にロビーやシャワーを開放したゴルフ場もあった。自分の設計した建物が心配だと、一軒一軒訪ね回る建築士もいた。

 首相や同行した政府関係者は、避難者が寝泊りする体育館に土足で上がりこんで批判された。天皇・皇后陛下は靴を脱いで膝をついて避難者と話をされた。毛皮のコートとハイヒール姿のTVキャスターがヒンシュクをかった。

 多数のヘリコプターの爆音と振動で、壊れた建物からの人の救出活動を邪魔したと報道各社は非難された。また、空中からの大火事の映像ばかりの、一部の地域に偏った報道も問題となった。全国各地からの救援物資はこの地域に集中した。地面を這うような細かい取材現場も見たが、これらはTV画面に映ることはほとんどなかった。

 こんな一見システム復旧と関係ないような話を長々と書いたのは、日常的には他人とのかかわりを余り意識せずに生活できていても、非常時には社会との繋がりをよく意識していないと間違った判断をしてしまうと思うからである。例えば、道路に交通規制の敷かれた状況で、「システム復旧に必要な物資の輸送をどうすればよいのか」といった問題にも、思いをはせていただければと思う。

いま、首都圏に直下地震がくれば……

 本稿は阪神・淡路大震災当時に考えたことを思い起こし、最近の状況を加味して書いている。その後、都市型の大きな直下型地震が起こっていないので、このときに見直した災害対策内容の評価・実証の機会はいままで幸いにしてない。そのつもりで読んでいただければ幸いである。

 ただし、当時は機器やシステムはもとより、電源や空調設備の系統などまで、関連するもの全体を隅々まで熟知し、組織へのロイヤリティの高いベテラン社員が多数いた。また、コンピュータはメインフレーム中心の時代で、メーカーのサービス担当者もすぐ駆け付けてくれた。システム構成自体も、現在に比べればはるかに単純なものであった。現在、これらの条件は当時よりはるかに厳しい側にシフトしている。

 いま、首都圏での大地震を考えた場合、特に懸念されることを以下に記す。

組織や人の面での急速な脆弱化が生じてきている

  • 本社機能の首都圏への一極集中、社内各種機能の集中化による脆弱性が拡大した
  • 中央集権的な経営・管理方式の強化により、社内組織・従業員の自律性が低下した
  • 情報システム規模が拡大し、業務の専門化が進み、全容を把握・理解できている人がいない
  • 効率化を追求した結果、万一の場合をカバーする余裕資源がない

首都圏の特性と問題

 首都圏で直下型大地震が起きた場合、阪神に比べて、以下の条件は大変厳しくなる。

  • 阪神淡路大地震の被災地域は、六甲山系と大阪湾の間の限定された帯状の地域であり、地域内の交通は大混雑したが、全国各地からこの地域の入り口までの救援・支援物資や人の移動には支障がなかった。人口や企業数は首都圏に比べて桁違いに少ない
  • 域内には被災した大企業は少なく、システムの復旧支援に当る企業・人は外部にあって健在であったため、社内やベンダから多くの支援者が駆け付け、復旧支援機材も集中的に投入できた

おわりに

 国全体では東京への一極集中が、効率化の代償として災害リスクの増大につながっている。事業継続計画(BCP)は個別の企業単位の問題だけではない。ITが復旧の足かせにになって、国全体の力が衰えるようなことにならないよう、ベンダは商売上の優先度とは別に、社会的影響度に基く顧客企業の復旧支援の優先度やその対象範囲を、事前に検討しておいて欲しいと思う(2000年問題でそのような検討もされたと聞く)。

 また、ライフラインを預かる企業の情報システムの復旧用の資材の輸送は、交通規制時にも通行許可の得られるように、関係機関との事前調整などの問題にも留意しておいて欲しい。

 どんなことが起こるか分からない、文字通りの不測事態対応への対策の基本は、責任感、倫理観、豊かな想像力と創造力、柔軟な対応力を持つ従業員の育成に尽きる。

profile

公江 義隆(こうえ よしたか)

ITコーディネータ、情報処理技術者(特種)、情報システムコンサルタント(日本情報システム・ユーザー協会:JUAS)

元武田薬品情報システム部長、1999年12月定年退職後、ITSSP事業(経済産業省)、沖縄型産業振興プロジェクト(内閣府沖縄総合事務局経済産業部)、コンサルティング活動などを通じて中小企業のIT課題にかかわる


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