優れたシステムを作るための“思考力、人間力”とは?何かがおかしいIT化の進め方(53)(3/3 ページ)

» 2012年04月20日 12時00分 公開
[公江義隆,@IT]
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新幹線建設に懸けた技術者としての情熱

視点その3――開拓者の信念と使命感

 次に開拓者の信念と使命感の例として考えてみる。

 島秀雄という人は、車両技術者として国鉄の最強力蒸気機関車、D−51(俗称デゴイチ)などを設計したが、いろいろ情報を集めてみると、むしろ洞察力に富む、構想作り(システム構成の能力)に秀でた人であったように思う。

 第2次世界大戦前の1927年、1936年の2度、それぞれ半年に及ぶ世界を一周する長期外遊(各国の鉄道の視察)を行っている。それぞれ25歳、35歳の時である。外国に出掛けること自体が、極めて大事業であった時代である。若き技術者の後生に大きな影響を与えたことは想像に難くない。2度目の外遊時に撮影した写真を基にした書籍(注5)が発行されている。フィルムが高価であった当時は「被写体を選び抜いて撮影する」ことが常識であったから、ここに残された被写体は「ぜひとも記録に残しておきたかった関心事項」だっただろうと想像する。


注5:「島秀雄の世界旅行1936−1937」(高橋団吉ほか/技術評論社/2008年) (4830円と高価な書籍だが、鉄道の他、当時の世界の交通や風景などにも関心のある方にはぜひ一見をお勧めしたい)


 ライン河畔を走るオランダの電車(おそらく2〜3両編成の郊外電車)を見た時、機関車による列車の高速化が世界の常識であった時代に、「電車による高速鉄道」を思い描いたと言われる。オランダは国土の多くが軟弱な地盤の干拓地である。日本も平野部の多くは洪積土砂からなる。

 動力を集中させた機関車方式に比べ、各車両に電動機(モーター)を持たせる電車列車方式なら、軌道や橋梁などへの荷重ははるかに少なくて済むほか、加速、減速や急坂の登りも容易である。しかし、振動、騒音、横揺れによる乗り心地の悪さや不安定性が欠点だとして、長年の間、長距離列車、高速鉄道には向かない方式だとされていた。

 だが、この旅の中で描いた「日本の将来の電車のイメージ」から、実現に向けた課題と道筋が見えていったのであろう。第2次世界大戦に敗戦した4カ月後の1945年12月、戦後の混乱の中で、国鉄(運輸省鉄道総局)の動力車課長だった島は、国鉄内と車両製造会社から、振動論と車両構造の研究者、技術者20数名を集めた。そして「優れた高速車両を作るためには、車両の振動理論を完成させ、その理論に基づいて台車の設計をすべき」という考えに基づき、「高速台車振動研究会」を自ら立ち上げている。このエピソードから、長距離電車列車に懸ける本気度、使命感、信念がうかがい知れる。

 その後のさまざまな課題解決と、それに基づく頭の中でのシミュレーションを通じて、イメージはより具体的なものに成長していったのだろう。 長距離電車列車への道として、まず湘南電車(鉄道マニアは車体の形式番号から80系と呼ぶらしい)で16両の中距離長大編成電車列車を実現(1949年)。その後、車両の軽量化と改良台車を採用し(1957年)、通勤用列車(90系)で新型モーターと新しい駆動方式の採用した高速化を果たす(1957年)。さらに、それまでの技術の集大成として「ビジネス特急こだま」(151系。クリーム色の車体の窓部分を、横一線の赤い帯でカラーリングした列車。新幹線の「こだま」とは違う)で、長距離大編成電車列車を狭軌で実現するに至った(1958年)。

 なお、湘南電車については、まだ国鉄が占領軍の軍政下にあった当時、「中距離に電車は必要性ない」と反対する占領軍司令部を屁理屈でごまかしてまで、計画を前に進めたと言われる。当時、占領軍司令部に逆らうには、よほどの覚悟がいったはずだ。

 新幹線は、建設期間が実質5年ということがあったのかもしれないが、技術に関する基本方針は“狭軌で確認できている技術”の広軌への応用であった。新幹線用に新しく開発されたものはATC(自動列車制御装置)ぐらいと言われる。とはいえ、新幹線に利用する技術については、さまざまな実験、検証が必要であった。具体的には、まず国鉄の工場施設内の設備で走行試験を行い、さらにトンネルや橋梁、カーブなど、あらゆる条件がそろっていた神奈川県鴨宮のテストコースで試作車両を実際に走らせて確認を行った。

 むろん、もし何か問題が発見されれば計画が瓦解しかねないという切迫した状況下である。そうした中、確実にやり遂げられた背景には、「決められた期間に必ず確実なものを完成させる」という使命感があったのだろう。実際、 島秀雄の文章には「何事も遺漏なく進める」という言葉が何度も出てくる。


 開業当時、高速化のための技術を知りたくて購入した書物に、「新幹線の高速化を可能にしたのは安全に停める技術」という説明があった。“目からうろこ”であった。ここ数年の間に、原子力発電所事故、鉄道事故、食品中毒、また航空、鉄道、金融、軍事などの情報システムにかかわる情報流出などの大事故、そしてITにまつわる諸犯罪、インターネットやケータイ依存症などなど、数多くの問題が起こっている。これらは効用と安全性をシステマティックに考えなかった結果でもあろう。われわれ現代のIT技術者は、「ITが社会や人に与える効用とリスクのバランス」を、“本当に”考え、理解できているであろうか。

 なお、今回は実務と技術の総まとめ役であった島秀雄の仕事を中心に述べてきたが、もう一人の主役、あらゆる政治的、財政的困難に立ち向かった国鉄総裁、十河信二の執念にも似た“完遂への人間力”も忘れるわけにはいかない。この2人がいて初めてなし得た事業であったと思う。詳しくは以下の「新幹線をつくった男――伝説のエンジニア・島秀雄物語」をご一読いただければと思う。

参考文献
「新幹線をつくった男――伝説のエンジニア・島秀雄物語」(高橋団吉/PHP研究所/2012年):本稿に関心を持たれた方には、ぜひ一読をお勧めしたい。
「面白いほどよくわかる新幹線」(小賀野実/日本文芸社/2010年)
「忘れえぬ東北・ふるさとの鉄道風景」(日本鉄道写真作家協会ほか/世界文化社/2011年):この本の内容は本稿とは直接関係はない。三陸のリアス式海岸の実に美しい風景を背景にした、そこに住む人々と鉄道の写真集である。印税は鉄道復旧への義援金として三陸鉄道に寄付されるという。

profile

公江 義隆(こうえ よしたか)

情報システムコンサルタント(日本情報システム・ユーザー協会:JUAS)、情報処理技術者(特種)

元武田薬品情報システム部長、1999年12月定年退職後、ITSSP事業(経済産業省)、沖縄型産業振興プロジェクト(内閣府沖縄総合事務局経済産業部)、コンサルティング活動などを通じて中小企業のIT課題にかかわる


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