スティーブ・ジョブズ氏引退で、Appleは変わるのか神尾寿のMobile+Views

» 2011年09月13日 10時00分 公開
[神尾寿,ITmedia]

 「残念ながら、その日が来た」

 そう書かれた一通の手紙が、IT業界を震撼させた。

 米Appleは8月24日(現地時間)、同社のスティーブ・ジョブズCEOが辞任し、COO(最高経営責任者)のティム・クック氏が経営を引き継ぐと発表。ジョブズ氏が取締役会にあてた手紙を公開した。その中でジョブズ氏は、「かねて私は自分がAppleのCEOとしての務めを果たせなくなる日がきたら、まず自分でそれを皆さんに知らせると言ってきた。残念ながら、その日が来た」とし、「取締役会が認めるなら、Appleの会長としてとどまりたい」と綴った。

 ジョブズ氏の引退は、業界内では“織り込み済みのシナリオ”だった。同氏は48歳で膵臓がんを発症して以降、闘病と手術を繰り返しており、2009年にはAppleの経営から一時離れてもいる。その後、同氏は手術を成功させて復帰したものの、2011年1月から病気療養に集中するとしてAppleの日常業務からは離れていた。その卓越した経営手腕とカリスマ性から同氏の復帰を望む声は多かったが、氏の健康不安説によってAppleの株価が左右されるというのは企業経営にとって望ましい状況ではない。健康状態の急激な悪化はなくとも、引退は時間の問題だったと言えよう。

ジョブズ氏退任は「最良のタイミング」だった

Photo WWDC2011の基調講演に登壇したスティーブ・ジョブズ氏

 いずれ避けられぬカリスマ経営者の引退。

 そう考えてみると、今回のジョブズ氏の幕引きは、ベストではないかもしれないが、ベターなものだった。

 病気療養中にも関わらず、3月には「iPad 2」の発表、6月には「Worldwide Developers Conference 2011(WWDC 2011)」の基調講演を力強くこなしてAppleの未来をアピール。MacOSとiOSという2つのOSの未来像を示し、今後のAppleの根幹を担うクラウドサービス「iCloud」を発表した。これらの"Appleの未来"とかねてからの好業績が高く評価されて、Appleの時価総額は一時エクソンモービルを追い抜いて世界1位になったのだ。

 この輝かしい成功の直後に、ジョブズ氏は引退を表明した。これによりAppleの株価は急落。8月25日には米S&P500種株価指数の時価総額が約500億ドル(約3兆8500億円)超吹き飛んだ。しかし、この株価急落はジョブズ氏引退のショックのようなもので、すぐに回復基調へと立ち戻った。目下のiPhone/iPadやMacの販売は絶好調であり、今年秋には新たなiOS 5を搭載した新型iPhoneやMacの新シリーズ投入が予定されている。また、Appleの新たな道筋であるクラウド時代への布石はiCloudで打たれている。これらがスティーブ・ジョブズというカリスマCEO引退の「緩和剤」として、Appleの時価総額と、当面の経営方針を支えることになるだろう。

今後のAppleは、"本田宗一郎引退後のホンダ"になる

 むしろ、多くの人が気がかりなのは「ジョブズ後」のAppleが、今までどおりIT業界のリーダーとして市場を牽引していけるか、というところだろう。しかし、これについても筆者は悲観する必要はないと見ている。

 新たなリーダーとなったティム・クック氏は、2009年にジョブズ氏が一時的に経営を離れたときにAppleの指揮を執った経験があり、現在の"Appleらしさ"をよく理解した人物だ。

 1985年に権力闘争を経てジョブズ氏がAppleを追われた時と異なり、今のAppleは経営幹部を筆頭に、彼の薫陶をしっかりと受け継いでいる。希代の天才カリスマCEOの代わりはいないかもしれないが、「スティーブ(・ジョブズ氏)ならば、どう考えるか」を理解するApple社員は幹部を問わず数多い。スティーブ・ジョブズ的な思考・価値観が、Apple社員たちに共有化されているのだ。

 この“ジョブズ後のApple”を考える時に、筆者の胸に去来するのが「本田宗一郎氏が引退した後の本田技研工業(ホンダ)」の姿である。

 周知のとおり、ホンダの創業者である本田宗一郎氏も、ジョブズ氏同様に個性の強いカリスマ型の経営者だった。当時のホンダは、経営の実務面こそ副社長の藤沢武夫氏が辣腕をふるっていたが、企業カルチャーのほぼすべてを“本田宗一郎氏の個性”が担っていた。本田氏こそが、ホンダそのもの、と思われていたのだ。

 その本田氏が、本田技研工業の社長を引退したのが1973年。その後も本田技術研究所の所長は続けたが、この年を境に、本田氏はホンダの実務からは次第に退いていった。しかし、この本田氏の引退によって、彼が創った"ホンダらしさ"は失われるどころか、純度を増して強固になった。本田氏を「オヤジさん」と呼び、彼の薫陶を受けた社員たちが、本田氏の思想を企業文化として昇華したのだ。筆者は直接的に本田氏を知らない世代だが、ホンダのベテラン社員の方々から、「オヤジさん」の逸話や教えをよく聞かされた。

 そして、ホンダらしさが、本田宗一郎という「人の器」から取り出されたことで、その思想や価値観は時代の変化に耐えうるものになった。属人的な要素がなくなったことで、普遍的な企業文化に昇華したのだ。これは今ではホンダイズムとして継承されている。

 Appleの今後は、この本田宗一郎後のホンダの軌跡に似ていくのではないかと、筆者は思うのだ。

神話は終わり、"Appleらしさ"は普遍化する

 ジョブズ氏の引退で、"神話の時代"は確かに終わるだろう。歴史に残る名言、卓越したプレゼンテーションテクニック、天才的なセンスを、1人の顔に見出すことは難しくなるかもしれない。しかし、彼が残したAppleらしさは、Appleの企業文化として昇華し、これから続くイノベーションの苗床になるだろう。誤解を恐れずに言えば、スティーブ・ジョブズという「人の器」から離れることで、Appleらしさは普遍化し、Appleの本質は時代を経ても変わらないものになり得るのだ。

 それだけ確固とした礎を、ジョブズ氏は残したのである。

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