大宮へ向かうトラックの中は、気まずい状態だった。誰も一言も口を利かない。高速に乗るのかと思っていたら、その気配はない。たぶん社長の命令だろう。それで急いでいたのか。
着いたのは13時過ぎだった。昼食はトラックの中でコンビニのおにぎりを食べた。
夫婦はだいぶ前についていた様子だった。妻がタバコ代と称して封筒をくれた。山下が礼を言って、ポケットに入れた。自分の分はあるのだろうか。浩はふと思った。
3階の部屋だった。7階建てなのでエレベータはあった。木田がマンションの管理人からエレベータのキーを借りてきた。ロックするためだ。
山下と木田が、トラックの荷台から手際よくタンスを降ろした。浩は、山下にエレベータに保護材を貼るように言われた。
「もたもたするなよ」。木田が命令口調で言う。浩は逆らってもしかたがないので、黙々と作業をした。
浩は、いまだに要領が良く分からなかったが、山下と木田がタンスを運んでいる間に、荷車を降ろして、そこにダンボールを積み、エレベータに向かった。上でロックしているのだろう、エレベータが来ない。しかたなく、ダンボールの1個を持って階段を登った。
部屋に入ると、まだ新しい木の香りがした。畳が青い。新居のにおいだ。他人の新居に足を踏み入れている。浩は不思議な気分になった。
山下と木田が器用にタンスを組み立てている。浩に気づいた山下が言った。「おいおい、荷物見張ってなきゃダメだろう」
言われてみたらそうだった。浩はダンボールをその場において、あわてて階段を下っていった。
幸い荷物が盗まれた気配はない。待っている間に、荷物を置くための古いカーペットを広げて、どんどん荷物を降ろして行った。
山下と木田が戻ってきた。木田が見るなり言う。「バカ。そんなに広げて、次のタンスどこに置くんだよ」。浩は急いでタンスを置く場所を空け始めた。山下と木田も手伝うが、木田はその間、ずっと文句を言っていた。
3つあったタンスを全部組み終えたところで、3人は順番にどんどん荷物を運び込んでいった。相変わらず木田は、舌打ちをしたり、悪態をついたりしていたが、だんだん気にならなくなった。
疲れてきたせいもあった。が、どちらかというと浩は不思議な感動に包まれていたのだった。
この夫婦は、見ず知らずのオレたちを信用して、新居に上げてくれている。それだけでなく、信頼して荷物まで預けてくれている。これって考えられないことだ。
浩は営業をやっていたのでよけいにそう思う。自宅はおろか会社にだってなかなか入れてもらえないものだ。
いや、まだ感動している理由はある。この夫婦にとっては、今日は人生の転機なんだ。これから何年もローンを払っていく、そんな決心をして買った家なんだ。不安もあるだろうけど、ワクワクしているはずだ。そんな日に立ち会ってるということだ。引っ越し屋って、もしかしたらすごい仕事なんじゃないだろうか。
山下と木田には共感してもらえそうにもないが、浩はそれでもいいと思った。そんなことより、自分にもまだ、感動できる心が残っていたことがうれしかった。
あの『奇跡の営業所』の著者が全身全霊で書いている日本一読み応えのある無料メルマガ「週刊突破口!」
ITブレークスルー代表取締役。1987年から2004年まで、大手システムインテグレーターにてSE、SEマネージャーを経験。20以上のプロジェクトのプロジェクトリーダー、マネージャーを歴任。最後の1年半は営業企画部でマーケティングや社内SFAの導入を経験。2004年転職し、PMツールの専門会社で営業を経験。2005年独立し、複数のユーザー企業でのITコンサルタントを歴任する。
奇跡の無名人シリーズ「震えるひざを押さえつけ」「大口兄弟の伝説」の主人公のモデルである吉見範一氏と知り合ってからは、「多くの会社に虐げられている営業マンを救いたい」という彼のミッションに共鳴し、彼のセミナーのプロデュースも手がけるようになる。
現在は、セミナーと執筆を主な仕事とし、すべてのビジネスパーソンが肩肘張らずに生きていける精神的に幸福な世の中の実現に貢献することを目指している。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.