クレドを見せるどころではなかった。そういうのは大企業の社長の道楽などと説教されるのがオチだと思った。
ほかにも何人かに秋田の話をしたが、全員判を押したように、同じような反応だった。
彼らとしては、浩を心配しての言葉だったので、腹を立てるわけにもいかない。ただただ残念なだけだった。懇親会がお開きになるころには、孤独さだけがのしかかってくる感じだった。
この人たちにもぶれずに言い続けていれば、いつか伝わる日が来るのだろうか? 想像もできないことだったが、秋田の言うことはまさにこういうことなのだ。
「あきらめない。ピンチは成長のチャンス。夢を語り続ける」。その姿勢が保ち続けられるのか、まさに試された形になってしまった。
いや、オレはあきらめない。いつかこの人たちに絶対オレの思いを分かってもらう。そのためには実績を出すしかない。この人たちがダメでも、この人たちの子供たちは分かってくれるかもしれない。だから、あきらめずに言い続けてみせる。
浩は、改めて決意するのだった。
その後も売上は徐々に伸びたが、利益が伸び悩んだ。内部留保が不足しているので、体質的には強くない。何かトラブルがあると、また借金が膨らむ。
トラブルが起こると、返済のリスケジュールのために銀行に頭を下げに行き、取引先でゆとりのあるところには返済を少しだけ待ってもらう。浩の仕事の大半は、金策のための時間に割かれることになる。
その際には、正直に包み隠さず状況を話す。決して格好をつけたり、甘い見通しを言ったりしない。これは、四畳半時代の大家の田所牧江に教わったことだった。
2007年は不運が続いた。不況で、閑散期は当然のように赤字。それを繁忙期に取り戻そうと思ったのだったが、例年よりも転勤が少なかったのか、さらに赤字が膨らんでしまった。
さらに厚木に営業所を作ったのだが、オープン直前に大雨の被害を受けて水びたしになり、しばらく仮住まいで営業する羽目になった。被害の回復だけでもたいへんな費用がかかった上に、仮住まいの家賃もバカにならなかった。
並みの経営者なら神経がおかしくなっていたかもしれない。浩がこの状況に耐えられたのは、秋田の言葉が常に頭の中にあったからだ。
「君にもこれからまだまだピンチや不幸は訪れるやろ。そのときに今の言葉を思い出してほしいんや。君に乗り越えられない不幸は来ないって、俺が言うてたってな」
秋田は、言葉とともに常にそばにいてくれる。浩は、本物のメンターとは、こういう人だと思った。
「ああ。これは秋田先生。久しぶりやね」
「宮田さんに、先生なんて言われると、こそばゆいわ」
大阪で月一回開催される弘和塾の懇親会の場であった。
弘和塾は、平成の経営の神様と呼ばれている宮田和弘が次世代の経営者を育てるために始めた私塾である。会員企業は1000社を超える。塾の名前は、宮田の名前から取った。
今日も300人ぐらいの会員が来て、いたるところで情報交換をし、談笑していた。
「秋田先生、来月あたり講演してくれへんか?」
「いや、もう俺の話なんかええやろ。それより東京にちょっとおもろい若いやつがおんねん。そいつはどうや?」
「秋田先生の推薦やったら文句はないわ」
浩のもとに弘和塾の事務局長から電話があったのは、翌日のことだった。
著者・森川滋之が、あの「吉田和人」のモデルである吉見範一氏と新規開拓営業の決定版と言える営業法を開発しました。3時間で打ち手が分かるYM式クロスSWOT分析と、3週間で手応えがある自分軸マーケティングと、3カ月で成果の出る集客ノウハウをまとめた連続メール講座(無料)をまずお読みください。確信を持って行動し始めたい方のためのセミナーはこちらです。
ITブレークスルー代表取締役。1987年から2004年まで、大手システムインテグレーターにてSE、SEマネージャーを経験。20以上のプロジェクトのプロジェクトリーダー、マネージャーを歴任。最後の1年半は営業企画部でマーケティングや社内SFAの導入を経験。2004年転職し、PMツールの専門会社で営業を経験。2005年独立し、複数のユーザー企業でのITコンサルタントを歴任する。
奇跡の無名人シリーズ「震えるひざを押さえつけ」「大口兄弟の伝説」の主人公のモデルである吉見範一氏と知り合ってからは、「多くの会社に虐げられている営業マンを救いたい」という彼のミッションに共鳴し、彼のセミナーのプロデュースも手がけるようになる。
現在は、セミナーと執筆を主な仕事とし、すべてのビジネスパーソンが肩肘張らずに生きていける精神的に幸福な世の中の実現に貢献することを目指している。
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